講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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カテゴリ:レビュー( 11 )

映画監督になりたいという夢は小学生のうちに終わったが(チャップリンから始まってラルフ・ネルソンあたりで終わったかな?)、テレビドラマの演出家にはなりたいと思っていた。数々の大河ドラマ、『天下御免』『気になる嫁さん』『お荷物小荷物』『新十郎捕物帳』『タイム・トラベラー』『逃亡者』さらに『四季・ユートピアノ』そして『金八先生』ついでに『ピーマン白書』・・・。なんというか、映画よりもずっと「現実と地続き」な感じがするのが好きだった。

というより、フィクションとは知っていても意識の中でそれは現実だった。小学校の時は朝校門をに入る時、振り帰ってカメラを意識したし、小学生のうちに視聴者参加番組への出演も果たした(「鶴光のテレビテレビ」)。俳優になることを挫折して最初に目指したのは映画ではなく「テレビの」シナリオライターだったし、卒論もテレビドラマ論だった。就職もまさしくこのドラマを作っている局を受けた。受けたテレビ局はここだけだった。

その私が見る『仁~JIN~』の展開予想。すでに原作は大きく踏み出しているから、原作を読んでいても予想することは不可能。

あ、あくまでも来週を楽しみにしている人はここは読まない方がいいと思いますよ。あまりにも当たりすぎると思うので・・・。

龍馬「もし、わしが刺客に襲われていよいよ危ない、助けられん、と思うた時、 南方仁が近くにおったら、おまんがワシを切ってくれ」
東「・・・どういうことですか?」
龍馬「南方仁がおれば、坂本龍馬は死なん! もちろん、ちーとは手加減せにゃいかんぜよ」
東「もし、ホントに死んだらどうするんです」
龍馬「(ニヤリ)そん時は…おまんが兄上の仇討ちをし見事果たした!
ちゅうことでええじゃいか…天がわしを生かすつもりなら、わしゃきっと
生き残るぜよ」

あるいは恭太郎の頭を切ったのを助けたことを話しているかも知れない。そして、たぶん、坂本龍馬は生き残ると思う。これは史実どころか、原作とも違うラスト。

そう判断した理由は数々ある。

・龍馬が急に弱気になった。
「世界の海援隊でもやりますか」は司馬竜馬でも一番有名なセリフのひとつで、ここまでは「いかにも龍馬」だった。しかしその後「逃げ回るのはイヤじゃ」とか「(ピストルに)こんなもの」とか、およそ一般的な龍馬らしくなく、しかもこのドラマにおける龍馬ですらない言動に見える、これがいわゆる「フラグ」(蛮勇を見せればそれは死の、臆病さを見せればそれは生存の)。
・意図的な誤爆。これはドラマを見た人にしか説明できないが、味方である東が龍馬を切る演出は故意にしか見えない。その理由づけは上のものしか考えられない。純粋に「事故」であれば演出ミスとしか言いようがない。

これらはすべて、脚本家を含む作り手側の作品への愛情、世界市場へ向けたどちらかといえばハッピーエンドに近いエンディングへの意図である気がする。

ただし、そのために犠牲にしていることが多々ある。

幕府公儀が家臣の家族を人質に取るとか、「一日」の終わりを「九つ」と認識するとか(これは仁、咲はいいとして龍馬は有り得ない)およそ時代劇における文脈を無視せざるを得ない強引なドラマ作りである。にも関わらず成功する可能性は高いだろうから、来週も楽しく拝見させていただく。

世界は物語通りには進まない。

英雄は決して必要な時にはあらわれない。現れるのは独裁者だ。学生時代、自分の世界への疑問に答えるはずだったカール・ポランニーが最も恐れたのが独裁者(全体主義)でありそれはピーター・ドラッカーも実は同様だったようだ。先日書いた「自由」の問題ともつながるが、人は自由になるために独裁者を求めることがよくある。その結果はストーリーにできないほど散文的で悲惨な結末を招く。

現代の日本で起っていることもそうだ。必死に復興への物語を描こうとしてもそれは小さなエピソードにしか過ぎず、「ああ、こんな時に独裁者がいてくれたら」という願望は確実に育っている。そして、残念ながら、恐らく現実的にはその解決策が最も有効だ。

ブレヒトはこの矛盾を「コーカサスの白墨の輪」の中で見事に解決した。アツダックという独裁者は実は盗賊で、仮の身分ゆえに善を行い、仮の身分ゆえに体制が腐敗する前に自らその座を下りる。

人はそれでも、自分の知る「物語」にしか善悪の基準を求められない。法学も倫理学も、時には物理学すら無視して「物語」に従うという「自由」に突き進む。

だからこそ、良質なドラマには、史実や現実の法則ではなく「物語の法則」に乗っ取って問題を解決してほいし。もちろん、それが「期待を裏切るもの」であっては許されないし、現実の法則を超えたものであればあるほど、創作のハードルは高くそびえ立つことになる。

さて、『仁』というドラマはこの難所を超えることができるだろうか。

待て! 次号!
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by yoogy | 2011-06-13 17:05 | レビュー
前に書いた「講談スティーブ・ジョブズ」は純粋に
http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html
の「メッセージ」のみから発想した。

なんとかより充実したものにしようと思っていた矢先、震災がやってきた。
被災した訳ではまったくないが、その後頭の中を地震と原発が駆け回っている。こういう時に、いかにして別テーマの物語を書けるだろうか。

「夢はかなう」と主張することが自分の人生の超課題である。その主張のために身命を賭して足りるものだと思っている。ジョブズはこう言っている。
「もし今日が人生の最後の日だったら、今日やろうとしていることは本当にやりたいことなのか?」と自分に問い、何日もノーが続いたら何かを変えなくてはいけないと。これはある意味過ぎた問いだ。「何日も」が何年も続いても人は生きてゆかなくてはならない。だが、この問いに意味はある。「やりたいこと」の設定が間違っていると質問自信が成り立たなくなってしまうからだ。

「今日も会社に行きたいのか?」と問えば「今日は休みたい」というのが普通だと思う。どんなに手塩にかけた仕事でも「もう一息ついてから安楽椅子で完成の報告を聞きたい」と思うだろう。現場に行けばそれなりにアッという間に時が過ぎるなら、それこそ地球が100人の村なら1人か2人なみに恵まれているのかもしれない。

ジョブズは自分自身への信仰が深いといえるのではなかろうか。ペプシ・コーラの社長、ジョン・スカリーを引き抜いた時の有名なセリフ
「残りの人生を砂糖水を売って過ごすのか、それとも世界を変えるチャンスを手にするのか」。魅力的なセリフだ。

だか、いま引用していてフト前からの思いが形になった。

ジョブズがやがてスカリーにアップル社を追い出された理由もまたこのセリフの中にあるのではなかろうか、と。

コカコーラの全米シェアを追い抜きペプシを一位に押し上げたスカリーはその夢を達成されたことで簡単に放棄してしまった。そういう人間だから逆にジョブズとは夢を共有することができなかった・・・・?

「メッセージ」だけから想像していたジョブズは、もっと穏やかな策士、木下藤吉郎みたいなイメージだったのが、この本を読んでからずいぶんと信長に近づいた。じゃあスカリーは明智光秀かというとスカリ関係ない考察になってしまう。

つまりジョブズは思ったほど人格者ではない。

それを知ってなお、彼が魅力的である点はどこか。

それを探すことで、前回の物語を補完することができそうな気がする。




(つづき)

時間は直線的にしか進まない。人類がおそらくその発生時から望んできたことは時間を逆方向に進むエンジンの開発であろう。言葉も、文字も、絵も、写真、映画、パソコン…すべてがこのエンジンにいたる虚しい試みに過ぎない。

さてさらにジョブズ。「メッセージ」の中で最も重要な示唆を含んでいると思う部分がここだ

「未来に先回りして点と点をつなげることはできない。君たちできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです」

カルマ、という単語が入っているのがジョブズらしいが、つまり彼は「タイムマシーンは必要ない」と結論を出しているのだ。点と点をつなげるのはそこを通過した後からだが、必ずつながると信じよ。と。これは果たして「成功者だから」言いえた言葉だろうか。そうだと仮定してみよう。これはただの自慢話でしかない。そうでないと仮定してみよう。彼はアップルを追い出された時には「成功者」ではなかったはずだ。部屋の電気を消して一晩泣き続けるような「勝ち組」はいない。彼は確実にその時は「敗者」だった。一財産築いていたことがどれほどの満足を彼に与えていたかは知るよしもないが、彼はそこで留まることなく進み続けた。

「現在」の話しか自分は講談にはできない。いまの日本の惨状と、これから進む茨の電車道をジョブズの思想で解決はできないだろうか。「ピンチをチャンスに」と人はいう。災害の死者には決して適用できない言葉だが、死者にはもとより言葉は届かない。生き残ったもので彼らを朽ちさせぬこと以外に道はない。あらゆる絶望と困難に直面して人は「夢はかなう」などと言いえるだろうか? 自分が始められるのは「かなう」と信じることでしかない。すべてを失って、時間の流れの遙か後方の丘の上にたって「あの点はこの点とつながっていた。無駄ではなかった」と言いえる境地があるのだろうか? 「ある」と信じることでしか物語は成立しない。

そうなんだ。それが「悲劇」であったとしても「物語」は中立で残酷で無慈悲な現実に「条理」を与える装置でしかない。そうすれば少なくとも「不条理で無意味で虚無な」現実に心を殺されることはないはずだ。

なんだ、スティーブ・ジョブズのやってきたことと自分のやるべきこともまた、同じではないか。

よし、これで出発点は確認できた。

あとはゴールだ。が。
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by yoogy | 2011-04-13 18:04 | レビュー
JAXAの講演会を聞いてきた。

会場は満員。二部制にしても入りきらず、USTREAMの中継も入っていた。


金星探査機「あかつき」のプロマネ中村正人教授と、「はやぶさ」のプロマネ、時の人となった川口淳一郎教授。

もう第一線で責任者となる人が「宇宙戦艦ヤマト」だの「アンドロメダ」だのといった単語をはさんでくるので(しかも正確な使い方で)ああ、やはり21世紀は来ていたんだな、と実感した。

自分は金星改造計画(テラフォーミング)に必要な水が「あかつき」の再投入と観測が成功すれば再発見されるの可能性はないか? というかなりアナクロで浪漫主義な質問をしたが、案の定会場の笑いをかった。まあ、少しは共感もまじっていた気がするので…。

川口先生の話は震災のお悔やみから始まり、途中何度か自作の短歌が出てくる。ああ、やはり講談で人情味のある「おかしら」とするにふさわしい人であったと再確認。

講演の中で、いかに小惑星探査が地球上の科学に役に立つかを強調されていた。たとえば惑星の組成がわかることは地震科学にもつながるし、原発の危機管理の方法論も宇宙科学の中に多くの示唆があると。

それでも・・・おそらく、自分がもっと震災に近いところにいて「宇宙」の話を、本職の人間は別にしても、目を輝かせて聞きに行く連中を見たらタイトルのように心で吐き捨てるかも知れない。被災者、ではない、「もっと震災を近くに感じている」たとえば去年「はやぶさ」の講談を書かなかった自分のような人間が。

しかし…今日、「宇宙科学」には宇宙の探求以外の使命を感じたのだ。

科学がもたらす恩恵をことさらにあげなくても、いまこうして、パソコンで文章を作りそれを発表している、そのすべてが科学の果実である。われわれが存在している基盤のすべて、たとえ電気もガスも通らず、住民がゴムでできた人工の足の裏すらつけていない地域の民ですら科学の影響を受けていないものはない。

その最大のものはやはり兵器とエネルギーで、人を殺す仕掛けと重いものを動かすカラクリは人類をこんな遠いところまで運んできた。そして、その実利性ゆえに常に欲望を載せて。

今日、原発の是非を口にするつもりはない。だが、原発がもたらす果実は禁断の実というに値するほど美味である。脳内の「危険」というキーワードをすべてマーカーで塗りつぶしてもなお、そこに人間のありとあらゆる欲望を呼び寄せる甘い香りがただよっている。これさえあれば貧困から脱却できる、これさえあれば隣国より強くなれる、これによってどれほどの人を救うことがでるだろう。魔法の指輪を求めて人々は血眼で争うことになる。そして農民は畑を忘れ職人は技を忘れ寺院には蜘蛛の巣がはることになる。

「宇宙科学」がもたらす実利は原発に比べてなんと少ないことだろう。みないまはまだ、必死に畑を耕し、純粋な農夫たちが目を輝かせて苗木を植えているところだ。川口先生ですら「フールツは遠い将来のことでしょう」と言ってはばからない。

ともすれば「ムダ金だ」と叩かれる。あの健気な孝行息子(はやぶさ)がいなければ間違いなく仕分けされていた。果ては武器転用だ、軍事応用だろうと痛くもない腹をさぐられる。

しかし、実利が少ないからこそ、他の応用科学にはない進歩を見ているのではなかろうか。冷戦時代の巧妙争いもあったが、月の石が名誉以外のどれほどのものを地上に運んだか(もちろん純粋な科学的成果はのぞいて)。はやぶさが命と引き換えに持ち帰った微粒子が、他の衛星がもたらした数枚の写真が、人々の世界観に影響する以外のどれほどの実利をもたらしたか?

だが、そこが素晴らしいのだ。

目の前に果実がぶら下がっていたら、ISS(国際宇宙ステーション)のような理想的な協調体制は生れていただろうか。はやぶさが微粒子ではなく巨大な資源を持ち帰るほどの力持ちだったら人々は涙する前にお土産を奪い合ったにちがいない。

そして、そういった天空に近い分野だからこそ、科学は純粋に発達していけるゆけるのではないか? そこから下りてくる技術を、より実利をもたらす科学に応用することが(危機管理システムの例のごとく)もっとも正しいことのように思われる。

もちろん科学技術はあらゆる面で諸刃の剣であることを認めつつ、人を殺す武器を作るための科学から最も遠く、過激な表現をするならば「(禍々しき)神を殺すための」科学がそこにはあるような気がする。

エマニエル・カントは言った。「この世で素晴らしきものは、天空に輝く星とわが内なる道徳律である」と。直感は常に正しい。不純なもの以外は。





(補足・カントはもちろん哲学者だが、「カントラプラス星雲説」として天文学にも足跡を残している)。
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by yoogy | 2011-04-09 21:59 | レビュー
日本にははっきりとした道徳の支柱がない。

もちろん、営々として築かれてきた習慣・慣習による道徳は厳然と存在する。それは今回の震災の後のともすれば「従順」とまでいえそうな冷静沈着な態度にもみて取れる。

しかしそれもすべて、横並びの「空気を読む」といった判断力と実行力によるもので、いわば成文法としての「道徳の支柱」はないのだ。キリスト教国における「裁きの神」などという絶対的な存在がない。「お天道さまは見てるよ」というのは規範としては強いものだが、「天」が何を考えているかは常に独自の判断に任される。例の有名なジョークで、船の遭難にあった時、「みなさん飛び込んでいらっしゃいますよ」と耳元でつぶやくと一斉に飛び込み始める、というアレである。

批判しているわけではない、それが実存する国民性というものであり、緊急時にパニックを避ける役目も果たすがひとたび集団心理が走り出すと暴走する場合もある。

さて『ケロロ軍曹』。吉崎観音のこの作品はすでに雑誌連載で13年目をかぞえ、テレビアニメのシリーズが七年を経て先日終了した。

この作品がこれほど長く続いた理由のひとつが、ガンダムなどのより人気の高いアニメ作品のパロディをやりたい放題だったということ以上に、アニメの観客層への、一種の規範の中心としてのアピール力を持っていたからだと自分は見ている。

それは二期のEDの「やらなきゃいけないことより、今は君と手をつないでたい」という歌詞に象徴されている。

十数年前のバブルの頃、走れば走るだけ世の中は繁栄し快楽は手に入った。そんな中で走らないのは馬鹿げたことだった。今からは想像できない、公務員が不人気職業だった時代。「24時間戦えますか?」と聞かれて「もちろん」と答えられない人間はその道徳的観念をも疑われた。いや、これは言い過ぎ、当時「道徳」などという観念は不要に近かった。格差などということすら問題にされなかった。

やがて、バブルははじけ、長い反省の日々がやってくる。我々は何を残してきたのか、失われた10年が始まり、積み上げてきたものに虚しさの風が吹いた。

「われわれは本当に成すべきことをやったのか?」自問自答しても答えはない。

ケロロ軍曹、は侵略者である。特殊先行部隊として地球に侵入したが、本隊に見限られ、各自特殊能力を持つ有能な軍人でありながら、地球においてその力を発揮する機会を持つことはできない。中にもケロロ軍曹。アニメ版の最後までその有能さを見せることができず(有能だから隊長であるはずなのだが)侵略作戦はことごとく散文的な思いつきに過ぎず当然失敗する。

そして彼は日常に埋没する。侵略するべき相手である日向家で家事を分担させられる以外は人目を気にして外出もできず、豪華な基地の中でガンプラを作りゲームをしアニメを見続ける。彼の姿が構造不況という言葉すらとっくに忘れ去られた時代の若者の呻吟する姿であることは論を待たない。

そして、彼はその怠惰とささやかな享楽を「肯定されている」のである。

なぜなら、彼の「やるべきこと」は「侵略」だったからである。

アニメ版の最終回で、総司令官に武力侵略を強いられた彼は強弁する。
「侵略は完了しているのであります。われわれは彼らと<ともだち>になったからであります」。

その友情は実は決して甘いものではなく、時には別の侵略者に対して生命だけではなく地球そのものの運命をかけるようなと大バクチも打っている。

すべてが矛盾しているが、すべてが調和している。ささやかでさえあれば享楽を得ることは決して「悪」ではない。21世紀に若者になったものたちへの、あまりにも優し過ぎる行動規範を与え続けたゆえに人気を保ち続けているのだ。

古く『うる星やつら』『究極超人あ~る』といった作品が与えてくれた居心地の良さ。しかしその裏にあるべきひとつ前の時代の行動規範を軟体動物の強さで否定してしまう世界観。


またひとつの時代が静か去ったことは間違いない。現実の時代とともに。
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by yoogy | 2011-04-08 18:33 | レビュー

金八先生ファイナル

「黒歴史」【くろれきし】忘れてしまいたい過去。例・私の卒論は金八先生でした。




いいわけをぶっておくと、『テレビドラマ論』で、実は金八先生で第一章を書いたあと、「これじゃいかん」と思い直して記号論(という学問が当時トレンドだった)を使った佐々木昭一郎や俺たちひょうきん族や「天下御免」論にした。だから卒論は金八論だけが独立している。てか、ただの感想文になっている。

いつもの「分析」は必要なかろう。一種の「世代ドラマ」であり、第二シリーズの「腐ったミカン」とかはほぼ「万博」並の共通体験であると思う。特に同世代の人間にとって、自分たちが身につけているのと同じ学生服の、ろくでもない日常を生きている人間にとって他人ごとではなかったから。

「荒れる学校」を経験しない人間にはした人間の生活はわからない。イジメを受けた人間の内面はそう簡単に想像できない。そういったことをそれなりのエンタテインメントを伴って垣間見せてくれるのが金八シリーズだった(のだろう。実は23年前の卒論の時点ですでに「古くなったドラマ」として論じていたくらいだから。シリーズでいえば1と2と5の一部しか見ていない)。

今日のラスト、一時間、ただ卒業生の名前を呼び、数秒の登場シーンを見せるだけで成り立ってしまったドラマに、この作品の価値があるのだろう。

自分も、教育実習に行った覚えがある。よく考えてみれば、大阪府の教員採用試験を受けたような記憶がある(本当に曖昧なのだが)。思えば覚悟もなしによくあんなことができたものだ。けれど、やはり時折、教師として過ごした自分の仮定法過去が浮かぶことがある。講釈師も「先生」と呼ばれてはしまうのだが。
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by yoogy | 2011-03-27 15:45 | レビュー
アニメ化記念(14日からNHK)

感動がよみがえってきたので、前にも書いたけど、また書く。

ネタバレではないが、核心部分。

「マネージャーの仕事は、体系的な分析の対象となる。マネージャーにできなければならないことは、そのほとんどが教わらなくても学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始(ママ)めから身につけていなければならない資質が、一つだけある。才能ではない。真摯さである」(この部分、ドラッカーの『マネジメント』からの引用として出てくる)。

(↑(ママ)とは原文のまま引用しました、という意味。ダンウロード版。誤植が見逃せないのは一生治らない)。

このあと、主人公の女子高生は泣く。それもホロリ、ではない、嗚咽である。号泣といってもいい。

(ママ)の記号がさらに答えを見えにくくしている。絞りこもう。

「才能ではない。真摯さである」

人生を数十年生きてくると、この言葉の意味への感受性は鈍麻していく。ヘタをすると否定したくなってしまう。「ケッ、何いってんだ。才能がない人間がどんなにみじめな思いをするか知ってるのか? 女子高生じゃあるまいし、経営の神様もとんだ甘いちゃんだぜ!」と吐き捨ててしまった時、人は真に人生の坂を下り始める。おそらくは大して高くもないだろうその場所から、確実に。

本文に戻る。


みなみは、その部分を繰り返し読んだ。特に、最後のところをくり返し読んだ。
----才能ではない、真摯さである。
それから、ポツリと一言、こうつぶやいた。
「……真摯さって、なんだろう?」
ところが、その瞬間であった。突然、目から涙があふれ出してきた。
それで、みなみはびっくりさせられた。自分がなんで泣くのか。よく分からなかったからだ。しかし、涙は後から後からあふれてきた。それだけではなく、喉の奥からは嗚咽も込みあげてきた。


悲しさでなく口惜しさでなく、まして体のどこかが痛むのでなく、この涙の記憶があるものは幸である。前にも書いた「世界は君の手の中にある」と誰かに言われたことの感動。それが涙の正体である。

金融工学の批判的研究が止まっている。だが「経営学」には「工学」ほどの冷たさを感じない。むしろ封建時代の「武士道」に近いようなものではないかとこの本を読んでいると思えてくる。

現実的に書かれた理想ほどすばらしいものはない。その理想を忘れさえしなければ現実もまたその美しさを反映するはずである。スティーブ・ジョブズの人生をなぞっていてもそう感じる。

「だったらよう、その真摯さでメシくってみろよ。世の中はまず金、それがなければ才能と、コネと、運がすべてよ。その三つを補うのが努力ってヤツよ。ま、その努力の才能すら、おれにはないがな、ハハハハハハ」そう捨てぜりふを吐くもう一人の自分にこそこの本を繰り返し読ませたい気がした。

真摯さ、とは何か。
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by yoogy | 2011-03-10 15:35 | レビュー
第一章「正しいことをする」

・・・実際、このレビューを書くのは昨日書いた通り「必要なお勉強」ではあるのだが、やはり現実逃避でもあるのでけっこう長期にわたることになりそう。イッキ読みはもったいないので。

2004年、アメリカにハリケーンがきた時、現地では物価が10倍以上になり、便乗値上げが横行した。「横行」と書いたがこれが無条件に「正義に反する」という判断は実は誰にもできるものではない。2ページ目にはその理由が書かれている「値上げのおかげで国中から物資を売ろうとする人間が集まり、結果として現地の人々は救われる」と。

(ああ、くそう。このあとかなりの長文を書いたのに、たったひとつのキーの押し間違い全部消えてしまった)(その内容は、自分が阪神淡路大震災似たヨウ経験をしたことだった)。

だが、その「市場」が機能するまでに数十倍に値上がりした生活必需品が最もまずしい人たちに届かないのは事実だし、それが生命の安全にかかわるケースもあるだろう。

さて、この時施行された「便乗値上げ禁止法」は正義か否か? あなたがフロリダ州議会の議員なら、この法律に賛成票を投ずるかどうか?

実は世の中で「正しく」行動するためには根本にさかのぼって考えることができなくてはならないということがわかる。

サンデル教授が話題になった時、ネット上でも「哲学なんて机上の空論」みたいな意見が多く見られた。「哲学は諸学の母」などとはなんという「現実」とかけ離れた物言いかと思われがちだ。だが実はその「現実」を考えるためにはやはり「根本にさかのぼって考える」必要がある。江戸時代のような安定した閉鎖社会ならばそうそう「正義」がゆらぐこともなかっただろうが21世紀の先進国では間違いなく「正義」についての哲学は必要となっている。それが今回のブームの本質であろう。

昨日書いた「線路上の五人を助けるか一人を犠牲にして五人を救うか」の問題は今日現実にある問題だ。アフガニスタンで一人の農夫を見逃したためにゲリラに戦友を皆殺しにされた兵士は農夫を殺すべきだったのかどうか。

現代の日本に生きていればこの兵士のような選択を迫られることはまずあるまい。だが、少なくとも国際問題を論じようとするなら、いや、たとえば選挙の投票行動ひとつにしても、やはり筋道を立てて「正義」について考えるよすがはあるにこしたことはないだろう。


(50/432P)
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by yoogy | 2010-09-18 18:28 | レビュー
さあ困った。

『志高く 孫正義正伝』『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』『拝金』に続いての電子読書。

この本は「ハーバード白熱教室」で有名になったマイケル・サンデル教授の書き下ろし授業である。正直、10年に一冊だけ本を読むならこの本だろう、というぐらいの本だと信じている。だが・・・いかんせん、不見転で買ってしまったが、しおり機能も付箋機能もついていない「原始的電子書籍」で買うべきではなかったと後悔している。この本は卒論を書く時のメインテキスト並に書き込みをしながら読んでいかなくてはならない本だと思う。

だからといって、書籍版を買い直す余裕もないし、そこで、このミクシィ日記に詳細にレポートを書いていくことで補うことにする。

今日はその前夜祭。

まず「正義」をなぜ自分が問題にするか。

「自分」というのは「オタク系講談師」のことである。

そもそも「講談」というのはかなり単純な勧善懲悪の物語を基本としている。悪いヤツはあくまで悪く、正義の人はあくまで正義。そうでなければ正義が悪を負かす爽快感がない。つまりは多分にアリストテレス的なカタルシスの演劇構造を本質としている。

だから、たとえば赤穂義士で大石内蔵助が吉良を討つことに疑問を持ったりしては「講談」そのものの伝統を否定することになるといっていい。自分の独演会のタイトルが「講談革命」なのは、当然そういうことに構造的疑問を投げかけるためで「テロリスト大石内蔵助」などの作品では確実に「敵討ち=正義」を否定している。
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/netacyo.htm

だからこそ「正義」というものに対して突き詰めた考察ができなければならないと思っている。

最近少し自分にとっての魅力が減じてきたといえ『ワンピース』というマンガで「海軍」というかの世界の治安維持勢力が背中に「正義」と大書きされたトレンチコートを着ている。このマイケル・サンデルの著作は、いわば世界でいちばん売れているマンガ『ワンピース』と同じテーマを持っているといっていい。

サンデル教授の例え話は面白い。「もし、あなたが電車の運転手だとして、電車が暴走して5人の線路作業員をいましも轢こうとしている。だが、もし待避線へ入ればそこには作業員は一人だけしかいない。あなたならそのまま進むか、待避線へ進むか?」この場合、多くの人は「退避線へ進む」と応えるだろう。だが、退避線の作業員にも何の落ち度もないのになぜ犠牲を当然とできるのか? こう問われた時明解に答られることができるだろうか。

考えたところで答の出ない問題を考えることが、実は現代には最も必要なことなのだ。

ちょいと不足を感じながら今日は終わり。
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by yoogy | 2010-09-17 18:25 | レビュー
(※ mixi日記より転載)

(【メモ】と断り書きのある時は、あまり文章に自信のない時です)

NHK-BS2で見つけ、懐かしさで見始めたが、けっきょく四時間見てしまった。

感動したのは、30年経っても「何一つ、テクノロジー的な進歩の跡がない」。そりゃ、BGMとかがMDとかデジタルデータになってるかも知れないが、イキナリ裸舞台とか、高校生がまさに体ひとつでやってるのは何も変わってない。

中でも弘前中央高校演劇部の『あゆみ』(作・柴幸男)には感動した。内容にはもちろんだが、「全編歩き続ける演劇」というものを寡聞にして知らない。ということは「演劇は、いまだに形式として新しく形作られ続けている」ということだ。

誰の、何の文章だったか「形式とは、天才が作り出した方法が踏襲されるうちに形式となる」とあった。『あゆみ』が「歩き続ける演劇」としての「形」を成すとは思えない。ということは「個人の発想のレベルですら、新しいものが作り出され続けている」ということでもある。

そして優勝校は、群馬県立前橋南高等学校「黒塚 Sept.」 こちらは形式としてはよくある形なのだが、表現のスキルが秀逸。

高校生には絶対の強さがある。それは「世界の限界を知らない」ということだ。どんなに醒めたようなことを口にしたとしても、実感として「世界に超えられない壁がある」ことを実感している高校生など稀なはずだ。演劇は世界を一から構築し直す作業だから、そこに描かれた世界にもいきおい「壁」がなくなる。児童画と比べてはさすがにすまないが、児童画における表現と発想の自由さに似たものがあるだろう。

あと「演劇」というものが完成していく過程において、いかに多くの「普遍的なもの」を拾いあげていくかということ。時間をかけて作るものだから密度が勝手に高まっていく、むしろ、密度が高まらないと維持できない(なにしろ同じことを繰り返すのだから)。

創造過程を繰り返す中での耐えざる発見。これはやはり、映画にはない特徴だといえるだろう。なぜなら問題は「過程」で、映画の撮影中にあまりに全体的な創造が起こると、過去に戻って他のシーンを撮り直さなくてはならなくなる。もちろん、映画が創造的行為の余地を残さないというつもりではないが、監督の脳内にあるイデアが統一されていなければ作品足りえないだろう。

これも出典を忘れたが「舞台は役者、テレビは脚本、映画は監督」という区分は、その「創造的過程」の現実的局面において出てくるものであろう。その意味で、高校演劇というのは、高校生がその創造の最高責任者になる経験をするという点で実に教育的なものであろう。

美空ひばりがレコーディングする時、テイクワンしか録らなかったという伝説は彼女の中でその創造的過程が終了していることを意味する。レコード(記録)とはそういうものであり、たぶん、彼女の歌は千回が千回違ったものだったに違いない。

うーん

ムッシュムラムラ。
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by yoogy | 2010-09-05 19:03 | レビュー
ホリエモンとのかかわりは、もう数年になるのか。独演会の入場料をライブドアの株価にしたり、裁判を傍聴に行ったり。自分は「ホリエモン信者」ではない。むしろ被害者である。それでもこの本は誤解を恐れずレビューを書く気にさせるものだった。

(※SNS mixi日記より転載)


【書評】と銘打ったからには本気で書く。このあいだ、飲み屋でホリエモンと坂本龍馬の共通点について語っていたら殴られかけた。だが、昨日『ラ・マンチャの男』を見直した自分には恐れるものなどありはしない。

初めに。太ったなホリエモン。留置所から出てきた時はあんなにスラッとしてたのに。太るのは悪いことではないがBMIは正常値に保て。君は長生きをしなくてはならない。

1章・日本は幸福な国なのか/もちろんそうでしょ。水道水がナマで飲める希有な国。誰でもインターネットが使える世界一恵まれた国。
2章・貯金と借金/35年間、同じ会社に勤めて、給料が上がり続けるなんて虚構ですよ。年収300万の人が50万コツコツ貯めたって無駄です。
3章・マネーと教育/貯金を美徳だって信じてはいけません。でないと悪い人に騙されるだけです。
4章・ルールの運用は恣意的に行われる/後期高齢者医療制度って当たり前のことに思うんですけどね。年寄りばかりが選挙に行くから止めちゃったね。
5章・いつだって先行きは不安/内定取り消しとかに文句言ってるヒマがあったら、もっと前向きに生きればいいのに。

以上は「俗情と結託して」この本の内容をまとめたものである。これがわれわれの知っている「ホリエモン」の正体だ。人の心の綾や機微を分かろうともせず、金だけで世の中を割り切って、平然と従来の道徳を否定して自分の成功だけを考える、傲慢で独りよがりで能天気な「ホリエモン」である。

だが、こうしてまとめたものを信用せず、本書を読んでみれば誰もが驚くであろう。この本のテーマは「若者よ夢を持て」ということなのだから。

P143「だから誰だって、別にアキバ事件の彼だってやれたと思いますよ。会社やろうと思ったら。全然、全然やれたんじゃないですか」「全然」という副詞の使い方が間違っている。かつ不必要に重複している。この本はインタビューなので、彼が語ったまま文章を起こしたものだろう。彼の「涙」をここに見るとしたら、それは針小棒大なロマンチシズムだろうか。

本書の副題は「僕はお金の正体がわかった」となっている。元祖の資本論が「貨幣」というものの正体から労働価値と社会構造に迫ろうとしたものだからその志は同じである。ところが元祖は世界中の人間が脂汗をかいても全巻読めないシロモノで、こちらは一時間もあれば読めてしまう。

彼はいう「お金とは信用を数値化したものだ」。「信用経済」という用語を知っていれば何をいまさらと思われるだろうが、「お金」については人が檻から放たれた虎を冷静に見ることができないように客観視することの難しいものだ。「金の亡者」ホリエモンには金の本質など語れようはずもない。だが「信用」とは「自分で作り出すことのできるものだ」と展開させる時、「お金」のもっていた絶対的地位がやすやすと階段を下りてくるのを感じることができる。

お金のないものに「お金を作ることなんて簡単だ」と「あの」ホリエモンが言っても説得力があるはずがない。「お前は犯罪者だろう」「たまたま運が良かったんだろう」「才能がある奴には何とでも言える」後ろに行くほど金の絶対的地位は下がるわけだが…「信用」を作ることなら、誰にでもできるだろう。それは人との関係の中で作られる。もちろんネットを通じてだってかまわない。「たとえば旅行をしたい時、お金があれば簡単だけど、お金がなければヒッチハイクをすればいい。僕はさんざんやりました」ヒッチハイクは「犯罪」でもなければ「強運の持ち主」でなくてもできる。ましてやまさか「才能」は必要ない。ただ人とのコミュニケーション能力があれば…それだって、ヒッチハイクをしながら身につけていけばいいことだ。

つまり、「お金」とはそういう「信用創造」の延長にあるものだ、というのだ。「能力があれば」ともちがう「コネがあれば」というほど卑しくない。そして「信用」こそが「お金」の本質であるということは難しい理屈でもない。

『ハゲタカ』というドラマの中で老職人がつぶやく「金なんて…紙きれじゃないか…ただの紙きれだよ」職人が「ホンモノ」であるから言える強がりでも妬みでもない一言。その「紙きれ」のために人は血と汗を流す、時には他人のものまでも…。それは「紙きれ」が「絶大な信用」を纏っているからだ。紙幣は国家の、通帳の数字は銀行の、ネットのトレードは各取引業者の。「お金はもともとバーチャルなものだ」それを実践において理解することは、「虎は猫と同じだ」と虎の喉をなでてゴロゴロ鳴らすよりも難しい。だが、観念において理解することは誰にでもできる。

前回の『徹底抗戦』を読んだ時、ホリエモンは実は「金に執着が薄いのではないか」と思ったが、今回その思いを強くした。彼は本の中でも書いている通り本当に「月10万円で暮らす」ことに「恐れ」も何も感じていない。遠い昔、ホリエモンを信じた根拠「具なしのお好み焼きで暮らしたことがある」はまだ消えてはいないようだ。

日本では酒造メーカの「一位」と「二位」の会社が合併するという。従来なら考えられない動きだが、実は世界的な順位で考えると何も不思議なことではない。今後日本の内需は100%減少に向かうのだ。「三丁目の夕日」のように人口が増えると同時に豊かになっていった時代の再現はもう有り得ない。ノスタルジーに浸るより「もっと前向きに生きる」ことを強いられる。その時、われわれは「観念のホリエモン」となることを避けるには「実像のホリエモン」の言葉に耳を傾けるべきではないだろうか。「信用」を創造するためには「情報」は不可欠なものなのだから。

「若いうちは、思い切ってレバレッジをかけて、大きく勝負すればいいと思います」その根本は決して「額に汗しない投機的な勝負」ではなく「自分の信用を創造するコミュニケーションスキルの開発」に基づく勝負。つまりは「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と彼は言っているのだ。どこかしらに痛みを伴いながら。

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↑この書評は中途半端といわれるかも知れない。
(ただでさえ長くなりすぎたので)
「ヒッチハイクができるからって、何百億もかせげるようになるのか?」なると思う。というより、この関連がわからないと自分で金を稼げるようにはなれないだろう。彼の結論が100%妥当だとは思わないけれど、お金に縛られないためにはお金を別の角度から見る必要があることは間違いないだろう。
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by yoogy | 2009-07-31 19:05 | レビュー