講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30

カテゴリ:高座( 30 )

広報体制をやり直します

もっとちゃんと更新していきます。

とりあえず、8/30の夜にイベントあります。

http://yoruhiru.jugem.jp/

こまかくこまかく更新を心がけます。
[PR]
by yoogy | 2013-08-26 16:43 | 高座
今日本牧亭でかけたら、10分の長さに育っていた。まだマクラにしかならないが。

テレビで見ると、フランスでは畑の隣に原子力発電所があっても完全に平気になっているという。

この問題は「業が深い」。昨日、宇宙関連の問題にかまけて書いた通りだ。

この間ネット上で議論した内容を忘れないうちにメモしておこう。


原発の是非の議論をすぐに「ライフスタイル」や「文明論」に直結するのは間違いだと思っている。『未来少年コナン』のように、「人々は誰でも緑の中で暮らしたいと思っているのです」と32年前に宮崎駿が書いた理想もそうそう簡単には適用できない。

本人がどこかで使うかも知れないので名は秘すが、ある芸人の親戚が「こんな状況だからこそ」原子力発電を推進しなくてはならないという。そして引退していたのがわざわざ現場に戻っていったという。いわく「いま原子力発電を手放したら発展途上国はいつまでも貧しいままだろう」という使命感に燃えたのだそうだ。

私自身は「火力で補えるものは火力でおぎなえばいい。何も文明論にまで話を広げなくてもいいと思う」。これは少し前までならかなり発言しにくかった。この日記は最近ブログに転載しているが今日はどうするかな? 後出しジャンケンのようだが、ミクシィの日記でここ何年か「地球温暖化(人為的CO2主因説)懐疑論」に触れてきたことを説明せずには暴論に見えるかもしれない。

思えばこの問題とのつきあいは古いのだ。

高校生の時、生徒会の副会長をやっていたから、いまから31年前だ。ある日、大阪市立大学(だったと思う)のおにいさんたちが、生徒会室にやってきた。

「われわれは原子力発電に反対するものです」と、大阪弁とは微妙にちがったイントネーションでまくしたてた。その頃には『未来少年コナン』の洗礼が終わっていたので、まだバブルも迎えていないながら「エコ」にも感心があったし、自分としては熱心に聞いていたつもりだ。

最後のそのおにいさんたちは「この運動を通じて、国家体制の変革を」とまで言い出した。これはかなり聞き手が熱心なのを見てとったのだろう。

高校生の時、けっこう「反体制の闘士」だったように思う。一番熱を入れたのが「再制服化」制度に対してで、高校が私服可だったのが完全に制服に統一しようとする「逆コース」の時期で、高一ながら先頭に立って学校側と戦っていた。(30年後に夏と冬あわせて二本しか履けるズボンのない人生を生きるとも知らずに)(いまからでも日本は自民服を強制してほしい)。

とにかく、「国家体制の変革」を高校生に説く大学生がいた時代なのだ。学校のどこかには「県尼全共闘」という文字もあったと記憶している。

おにいさんたちが帰ったあと、一年先輩の書記長がポツリとつぶやいた
「でも、僕は原子力しかないと思うんだがなあ」。当時の進歩的な高校生ならすこし背伸びしてこういうだろな、と一年下の自分は客観的に聞いていた。

福島原発一号機の着工日は1967年である。アレは、自分が物心つく前からあそこにあるのだ。

そうそう、ネットの論争だ。「火力じゃダメだ」と押しまくられた。それはCO2問題ではなく「石油の確保が国家の安全に直結してしまう。エネルギーの根幹を不安定な石油に依存するのは危険だ」「いつオイルショックと同じことが起こるかわからない」この反論は愚かしい。ほうほう、今回の危機がオイルショック以下だというのかね? 実際、オイルショックと同じ総量規制が発動される上に汚染の問題が無限に広がっているではないか。

原子力発電の問題を、CO2の問題とも、ライフスタイルとも、政治運動とも切り離した上で見直さなくては未来は見えてこないのではないだろうか。だが、50年以上の時の中で、この問題には人の手垢がつきすぎている。こんなやっかいな問題を「物語」にする術などあるのだろうか?


(この項、いつか続く)
[PR]
by yoogy | 2011-04-11 07:19 | 高座
以下、エイプリルフールにあらず。
私は生れてからウソをついたことがありません。


本日、木馬亭の出番。

「え~浮世の憂さを忘れようとしてお運びいただいたお客様には申し訳ありませんが、私は今起こってることを言わないと気がすまないもので…」
「原子力発電、なんていうとワケがわからないでコワイと思うワケですが、フツーの火力発電とどうちがうかといえば、フツーの火力発電は、石油やら石炭やら天然ガスを炊いてヤカンをあっためて中の水がピー! と吹き上がってこう、グルグルと磁石の中でタービン回して発電してるワケです」
「で、原子力発電はどうちがうかというと、この石油とか石炭の代わりに
<ウラニウム>という練炭を炊いてるワケですよ」


「みなさんの世代ならおわかりですよね? ほら、練炭てなかなかいこらないでしょう? 上に紙クズのせて、七輪で下からパタパタと。でも、一旦いこったら簡単には消えない。アレです。<ウラニウム練炭>これをつかってヤカンをピー!と沸かせてるのが<原発>なわけです」

(注・いこる=熾る=おこる)

「さて、今回の事故ですが。丈夫な火鉢の中にカンカンにいこっている時に、グラグラグラーッ! と揺れて、ヤカンの水をバーッ! と練炭にぶちまけちゃった。これが最初の爆発です。灰がモクモクモクーッ とあがって…。まあ、練炭の灰ならおモチ落としてもパッパッとはらえば食べられますよね。ところが、この<ウラニウム練炭>の灰には毒があるから困っちゃうわけです」

「そして何より困るのが、練炭が消えないことなんですよ。いこりにくいものは消えにくい。水をかけても簡単には消えません。ほっとけば、火鉢ごと燃やしてしまうわけですよ。これがチェルノブイリなわけで。それでもう、東京消防庁なんかが必死でバーッと水をかけた、それで温度が下がってきてる、それがまあ、今の状態なんですよ・・・」

(この項続く)





「この<ウラニウム練炭>はそれこそ、何年も何年も冷やさないと火が落ちないので、これからも水はかけなくちゃいけません。でももう、火鉢まで燃やしてドカーンてことはないでしょう。なぜって、なにしろ火鉢まで燃えると世界中に毒の灰が飛ぶので、もう、火消しの組がみんな集まってきて、フランスの「ふ組」とかアメリカ「あ組」とかがドイタドイターってやってきてるんで、まず大丈夫、爆発はありません」(と断言してしまった)。

「ただ、水をかけてりゃとうぜん、灰を含んだ水がしたからジャージャー出ていくので、この水をなんとかしなきゃいけない。いまここです。これが海に広がっても困りますし、土壌を汚染しても大変。ただまあ、これが東京まではなかなか来ないでしょう。もういっぺん雨が降ったら、また数値が上がるようなことはあると思いますが、まあ灰がまたバッーと広がらないかぎりは安心していいでしょう」

「だいたい、ヨウ素131とかが水にまじってても、何十年か経って、たとえば40年後に甲状腺ガンが増えるとか、そういう程度です。だから、赤ちゃんやなんかは、働き盛りでガンになっちゃ可哀相っていうんで、極力灰の入った水を飲まないようにしてるワケです。40年後…みなさん、心配ですか? だいたい、あの、<安定ヨウ素剤>、あれ、40歳以上には配ってもらえないんですよ、私もみなさんも(笑)」

(この「40年」は濃度の問題もあるし、言い過ぎかと思いつつ…)。


このあとももう少しネタがあったが、今日はこのくらいで。

内容におかしなところがあれば、ぜひご指摘いただきたいと思います。

ほおっておくと動画をあげたくなってしまいそうです。
[PR]
by yoogy | 2011-04-01 15:51 | 高座
「説明してくれ」と言われると知らないことまで説明してしまうのが講釈師。
「いま、どんな状況なんだ?」。

「たとえばわれわれが山に登ったとしましょう。里からも離れ、頂上やロッジからも半日くらいはたっぷり離れたところで遭難した、と。その時、食料をまとめたリュックを谷底へ落としてしまった。これが建屋の爆発、まあことの始まりですね」

「その時、みんなが、『まあ、食料は全部落としちまったが、水は別にもってるから大丈夫』と安心して山を昇りつづけました」

「ところが、水を一人でまとめて持っていたクルーが心の中で『・・・どうしよう。実は水も落としちゃったんだよね・・・』」

一行は山登りを続けています。さて、このクルーが「実は水も落としちゃった」と告白するのはどんな条件がそろった時でしょう?

それは

1.山小屋にたどりつき、食料も水もたっぷり手に入った時「実は・・・」
2.いよいよ生命の危機が来て「おい、水を出せよ」といわれ「実は・・・」


私はね、いま「1.」だと思いたいのですよ。流山の浄水場で、隠していた(以外に考えられない)336ベクレルのヨウ素131を検出したことを、一週間もしてから発表した、という状況が。

いわゆる「悪材料出尽くし」というヤツです。株は底値となってますが、いまが買い時、の条件です。

まさか、よもや、「2.」ではありますまいて。

もうプルトニウムも出たし、とりあえずこれ以上悪くなることがあまり想像できない。いや、したくないだけか? でも、あの「大爆発」のあとの初めての雨でそんなもんなら、よも今後の大爆発のあるべくもなく、この身がウォーレン・パフェットならこの時点で買い戻しですね。ハイレバ禁止。オプション禁止。

もちろん、これから何カ月も何年も、冷却と廃炉のための努力は続くでしょう。でも、昨日今日あたりがピークと信じてます。

一カ月後、この日記を読んで「それみたことか」と言いたいがために。
[PR]
by yoogy | 2011-03-30 15:50 | 高座
まで一月ほどしかなくなった(第一弾は非公開に近い形になります)。

もうすでに、昨年の春に木馬亭で上演しているので、「もうできてる」といえなくもない。やったね!

しかし、あれは本当に純粋に「スタンフォードでのスピーチ」だけに基づいて即製したもので、はたしてあれを定番にしてよいのかどうか。

(よい翻訳がなかったので記事で↓)
ttp://blogs.itmedia.co.jp/closebox/2009/03/post-12a0.html

あのスピーチは確かに、彼自身の思想にのっとって自らの生涯をまとめているものだから、あれだけで十分と考えてもよいとは思う。だが、それはどこかで「宮崎駿はラピュタで終わった」と訳知り顔をする連中に自分が怒りを感じるように、ジョブズの理解者には不十分ではないのだろうか? と思えてきた。

「講談ビル・ゲイツ」を10年前に書いた時、NHKの「新・電子立国」を中心にパソコンの発達史を学んだが、そこにあったのは、まるで「日本の夜明け」をめざす維新志士のように「坂の上の雲」をめざす明治青年のように、明るい未来を確信して突き進む巨大な青春の群像だった。

知名度や資産ではビル・ゲイツの勝ちだろう。だが、そう言い切ってしまうと「アルプスの少女ハイジ」のアニメ版を宮崎駿監督作品だと思ってる連中に自分が怒りを感じるように、ジョブズの信奉者には納得できないにちがいない。

高畑勲=ジョブズと言い切っても、やはり林檎教徒は納得すまい。

「親指シフトキーボード」をいまだに使用している自分にはその嘆きはよくわかる。

だから、ジョブズを理解することが真にIT革命のもたらしたものの本質を理解することにつながるような形で補足していかなくては意味がない。

『フェイスブック』はまだレンタルはされんのか。

「IT革命」ってなんなんだ。いまや21世紀の世界動乱の本質的な始まりを感じている、考えなくてはいけない問題だ。

日本の「ITの寵児」ホリエモンは「ツイッターがあれば国連が助けにきてくれるから怖くない」と言い切った(皮肉と同時に「言い切った」意義は認めよう。その後必死にフォローに走っているようだが、撤回したらこんどこそ終わりだと思う)。「ITの成功者」孫正義は「300年かけて人類を幸せにする萌芽」だと言い切った。イオリア・シュヘンベルク。

それらの原点は、やはりジョブズに求められてしかるべきはずだ。

さて、どうする。

大隈重信とちがって、スポンサーはいないぞ。
[PR]
by yoogy | 2011-03-09 15:33 | 高座
私の講談(まあ、演技、だな)の雰囲気を知る人は、ちょっと思い出しながら読んでほしい。

「これが今の世か。まっとうに働いてきた人々を苦しめその身を縄で縛りあげ、先に何の希望も持たせない。勤皇だ佐幕だと騒いでみてもしょせんは武士同士の内輪もめ。いつの間にか民をここまで追い詰めてしまった。…いったいわれわれ武士は、<人のために生きる>はずの武士は、今日まで何をやってきたというのだ!」
 
血管切れそうになりながら言います。

もともとは大学の校友会の依頼で書いた大隈重信。しかし、せっかく書くのなら5年後くらいの大河ドラマをめざせ! とリキ入れて書きました。構成的にはクライマックスが話の真ん中の前にきちゃうんですよね。つまり、大隈候(龍馬「さん」に対抗して支持者の前で呼ぶために考え出した呼び方)のもっとも劇的な局面、かつ普遍的な場面は慶応四年(明治元年)にきちゃうんですよ。亡くなったのが大正11年ですからねえ…。

その「劇的な局面」とは英国公使パークスとの宗教論争のシーンだ。この論争は実に深い。まだ「ヤソ教・バテレン」と忌み嫌われていた時代、信者は死刑になる時代に、大隈重信はマタイ伝の10章34節を引いて「宗教は必ずしも平和をもたらすものに非ず」(私が平和をもたらすためにきたと思うな、私は剣を投げ込むためにきた)と喝破している。めったに書かないのだが、実は私のペンネームの「さきむすぶ」はこの聖書の一節から来ている(割き・結ぶ)。大隈さんすげええええええ! である。

しかし、この「国の現状を普遍的な真理より優先せよ」という理論は、もしかすると現在の独裁制・独裁体制を取っている多くの国の正当化にもつながるのだ。つまり、大隈候は普遍性よりも現実性を優先させた、これこそ真の政治家というものだ。だが、それゆえに、彼には他の英雄たちにあるべき魅力がない。つまり「現実的であるがゆえに」。

ならば彼の魅力とは何なのだろうか、とさぐったのがこの講談といえる。CDも無事完成しそうだし、そのことはまた、ゆっくりと書きたい。

3月12日(土)昼席・本牧亭トリ

http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/

[PR]
by yoogy | 2011-03-06 15:30 | 高座

毎年書いてきたので、今年も終わりだし、恥知らずにも書いておこう。

スリムクラブ、が笑いを取ったのは「禁忌を破る笑い」の線上に見事に乗っていたからだ。それを代表するのが、一回目、二回目に一番ウケたワードだ。
「放射能」「民主党」。このふたつの単語を「街で出会った挙動不審の巨漢」と「他人の葬式に押しかけてきた巨漢」がおどおどとしながら言う。しかもその発音はあきらかに標準語でも漫才のオーソドックスな大阪弁でもない。今年最も緊張感のある「沖縄のことば」である。

どうだろう。上の単語と登場人物を並べ替えて間を埋めればいかなる社会的なメッセージを構成することも可能なことにお気づきだろうか? それが「お笑い」という、しかも観客さえ緊張させるというその頂点の舞台で展開する。もちろん、そこで「笑い」を成立させた、即ち見事に「禁忌」に触れながらその当然予想されるメッセージを軽やかに回避する、アクロバチック飛行もかくやという技術はホンモノだと思う。だからスリムクラブが優勝してもなんら異論はないが、逆に笑い飯の優勝にも十分うなづける結果となった。

「笑い」は恐ろしい。

高校の頃、演劇部ではこんな言辞が聞かれた「泣かすのなんか誰にでもできるが、笑わすのは100倍むずかしい」いかにも関西の高校生の意見である。いや、これは現在泣かせるのが好きな自分の「芸」を生業とする自分もうべなうところはある。それについてはタモリさんが「いい話特集」みたいなコーナーで言ったことに尽きる。

「人の死んだ話をされて泣かなかったら人間性を疑われるでしょう?」つまり、死を扱えば泣かせる方向に誘導するのは比較的たやすい。笑いにはそれほどのしっかりした曲尺・鯨尺はないということだ。

あえていうならば「笑い」は「禁忌と、その予想される緊張感を回避する快感」である。問題は「禁忌」をどう作り出すかである。

パンクブーブーのネタをみてみよう。二本とも「怖い相手とケンカになる」話であった。本来予想される悲惨な暴力は最初から回避が予想されている。あとはその過程でどれだけ「禁忌」に近づいていくかの技術問題になる。

決勝に進めなかったピースも「タマシイ」を「吸う」というところで受けていた。これはスリムクラブの方法論に近い。

その点、笑い飯の作り出す「禁忌」にはかなり高いオリジナリティがある。それを長年作り出してきたという事実が加点されてもなんら不条理ではないし、二本のネタを見れば「これからも作り出してゆける」という可能性を感じさせる。「今日、ここで、一番ウケた」人間を採点するのでないなら、結果はあれでいい。なにしろオリジナリティのある「禁忌」は回避の方法すら一般論では作り出せないのだから。


あ~あ。評論家じゃないのになあ。

自分のケイコをしよう。
[PR]
by yoogy | 2010-12-26 21:13 | 高座

『坂本龍馬と新撰組』

永谷ホール(Fuホール)9/10夜席。

「ヨウジ版龍馬伝」隔月の第三席。文久三年の京の動乱の中で出会う龍馬と新撰組の山南敬介の物語。

沖田総司は神田陽司と漢字二文字違い。ほかには寺山修司や山田玲司(マンガ家)などがいる。

正直、新撰組への反感に満ちた話になってる。まあ、悪役が芹沢鴨なのはそれが全面に出ないようにとのごまかし。いわゆる「鴨フラージュ」というヤツですわ。

高座では冗長になるので触れなかったが、実はこの話の山南敬介にはモデル、というか、想定した人物がいる、イラクで命を落とした奥克彦大使(死後の特進による大使)である。自分と同郷で大学も同じ、彼が戦地・イラクで何を思い命を落としていったのか、そんなことを考えながら書いた記憶がある。

私の「龍馬伝」はほとんど平成に起こった事件を投影している。というより、現在を語るための素材としての龍馬なのだから。

さて、NHKの龍馬伝には「龍馬さんカコイイ」以上のメッセージがあるのだろうか?
[PR]
by yoogy | 2010-09-11 22:40 | 高座

『生きる悲哀』

木馬亭高座。

ネタ帳を見ると、他の講釈師は、ちゃんと新しいネタをかけている気がするが、自分は「新ネタ」ではなく「新作」を書いているので、「ネタの維持」のためには古典もかけなくてはいけない。そしてキチンとできた「新作」はこの木馬亭でもかける。「木馬亭でかけられないものは<講談にあらず>」と決めているのは、講談の席だとどうしてもお客様に「これは実験的作品です」と甘えてしまうから。

さて『生きる悲哀』は、大正時代の教育者が不良少年を立ち直らせるというただそれだけの話。それだけ、といいながらきちんと生徒との接近過程が描かれている。30分たらずの話でこれだけ充実した起承転結があるというのは、「大正モノ」とはいえ「古典」に位置づけていいと思う。

自分が二代目山陽から習って、どこか改変を加えたとすればラストシーン近くを「地の分」ではなくセリフにして、いささかスタニスラフスキーチックな「演技」の場面を足したくらいか。自分で泣くタイミングのない話にお客様が感動させる力があるとは思えないから。案の定、電車の中でネタ繰りしてて、泣く。

本当は「雑草」という単語にからめて「元ジャイアンツの上原」というくすぐりがあるのだが、もう古びて使えないかなあ。

それと、この話にはちょっと困った思い出が、いや、思い出でなく今も進行中なのだ。

7年ほど前、なんとこの話の登場人物の子孫からメールをいただいたのだが、それがパソコンのトラブルでどこかに行ってしまったのだ。なんとか復元できないかと7年間さがし続けている。

万にひとつでも、このブログをごらんになったら、ご連絡ください。

http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy
[PR]
by yoogy | 2010-09-03 18:38 | 高座
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/netacyo.htm

今日は「千葉龍馬会」での講演+講談。

龍馬について「講演」などというのもおこがましいが、ドラマなどで混乱した龍馬像を「否定せず解説」することで龍馬についての興味・理解が深まってくれればと思う。

今年はずいぶんいろんなところで講演したし、バスでも喋ったが、外せないのは「大政奉還の意義」ということになろうか。カントの「永久平和のために」が龍馬の理念(戦争は商業にとって障害である)という立場から「平和主義<者>でない龍馬」「功利主義と理想を両立させる龍馬」を描くのが自分のテーマとなってきているわけで、それが自分のオリジナリティだと思っている。

講演ではついつい「龍馬さん」と勢いで言ってしまうが、自分にとって「龍馬」は「龍馬」である。

「さん」なんて距離を置く必要があるのだろうか?

そりゃあ、肉親とか、せいぜいご子孫の前でなら敬語も必要かも知れないが、少なくとも歴史上の人物に対しては「敬意」をあらわすことで客観的に尊敬をあらわすより、呼びすてにすることで自己と一体化する方がいいと思う。歴史上の人物の現代における存在意義の第一はそれである。一体化してその理想を学ぶのに「龍馬サンにはかなわないけれど」なんて客観化してどうする? と思う。まあ、コスプレするのとはまた話は別だが。

自分の中の思いは「龍馬を<主義者>にしたくない」ということなのだ。<主義者>が不必要だとは言わない。<主義>という明確な大義をかかげて運動を盛り上げる局面も時には歴史に必要だろう。だが、坂本龍馬の行動は<主義>として確立する以前のダイナミズムに支えられていると思いたい。だから、どこぞのドラマで「おれたちは私利私欲を捨てよう」なんて龍馬を見ると腹立たしい以前に悲しい。結局<主義者>にしたてあげることでしか龍馬を表現できないのかと思ってしまう。

なのでこの、10年も前に書いた龍馬の「普通選挙制の出会い」という「らしい」副題は、寄席でもめったにネタ帳に書かないほどに、皮肉たっぷりのものである。内容はズバリそのものなのだが、ふた言目には「身分制度をぶっ潰す」という熱血龍馬もいまひとつ好きになれない自分の最大の皮肉である。

あとから気付いたのだが、このネタは、呼吸が「熱海殺人事件」というか、つかこうへい氏の影響をモロに、というか、ほとんど盗作レベルのところもあるんだよなあ。と、書こうとして、もうひとつ、高校時代に観た「旅~生きて再び」という創作演劇にも同じ謎解きがあったことを思い出した。何にせよ、「新作講談」というより「演劇」の呼吸が色濃い話だと思う。だからわりと簡単に舞台化、映画化できる気がする。

まあ、それはそれとして、まだしばらく龍馬ブームは続きそうなので、動画アップなど頑張ってみよう。
[PR]
by yoogy | 2010-08-29 23:37 | 高座