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講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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『ガラスの仮面』の最終巻を読めずに死んでいった人も

多かったんだろうなあ…。最新刊買おうかどうしようか。

演技論続き。
せっかくだからガラスの仮面の話から入れば、「北島マヤ」という天才はまずは「模倣と感情移入」の天才であり、確か最初の方に、たった一度見たお芝居を完全に再現できるというシーンがあったはず。「天才度」などという尺度があるとすればこれはモーツアルト並の天才で実在するとすればいわゆるサヴァン症候群に近いものではないかと思ってしまう。こういう使い方はいいのか?

だが、彼女の「天才」はある戯曲と遭遇することで危機に瀕する。それはシェイクスピアの『真夏の夜の夢』であった。台本にはこう書かれている「これこの通り」(いったい、どんな動きをするのかしら?)とこの天才は悩む。いかに模倣と感情移入の能力があっても、「妖精パック」を見物に行くことはできない。他人のパックを見てもそれは使えない。

ここから別の話になってしまうのだが、「演技」にはこういう分け方もある「シェイクスピアの戯曲を上演できる演技論とそうでないもの」。テレビや映画でふつう目にする「演技論」はどちらかといえば「そうでないもの」に分類される。

私論。世界で映像表現(劇映画)において支配的な演技論はモスクワ芸術座のルーツであるスタニスラフスキーの演技論である。劇映画のメッカはしかしハリウッドということになるが、ここには「リーストラスバーグ・アクターズスタジオ」の存在があり、名だたるハリウッド俳優はみなここで教育を受けた。ここの演技論もまた「スタニスラフスキーシステム」である。

この演技論はひとことでいえば「本気になる」ということで、いかに「本気になる」かを方法論として確立させる教育を行う。東京に出てきた当初、いろんな劇団やワークショップを渡り歩いていた頃、アクターズスタジオ出身の先生のところにも行ったが、その時覚えているのが、エチュードをやっている時、先生が、舞台が高揚してきたのを見越して机の上においてあった小道具のうち「尖ったもの」を演技中にもかかわらず隠し始めたこと。つまり「本気になる演技論」は感情的なシーンを演じさせた場合、そこにナイフがあったら相手を刺してしまう・・・というレベルの感情移入を理想とする。スタニスラフスキー・システムの神髄を見た思いだった。

で、ですね、

この「本気になる」演技論では「妖精のパック」はやはり完全にはできないわけですよ。やり方はある。「パック」の「妖精」の部分を無視して、一種の類型としての日常的に散見し得る「妖精みたいな人」の内面を模倣すること。しかし、それでも、たとえば毒を飲んだあと延々と韻文を語るような台詞を「本気」でやるのには無理があるわけです。

私が「演劇」というものを何度か「体感」した瞬間のひとつにNHKで見た早稲田小劇場(現SCOT)の『トロイアの女たち』があるのだが(ギリシア悲劇に欧陽菲菲の『愛の十字路』を重ねているシーンを見た時、今に至るまでの自分の運命が決まった気がいまもしている)、鈴木忠志氏のシステムもまた「シェイクスピアの戯曲を上演するための方法論」のひとつだと思っている。「内面のリアリティ作りの幻想」ではない脱スタニスラフスキー。これまた、白石和子さんが上演後、瞬間的に「素」に戻って客席の知り合いに声をかけているのを見て驚いた体験アリ。

土曜に講義する「講談の演技論」は一体どちらに近いのか。これは明らかに後者といえる。故・二代目山陽から内面について教えられたことが一度もないし、何よりもひとつひとつの「役」に入り込んでいては「役」同士の対話など出来るはずもない。講談は基本的には「韻文」を扱うものなので(実はこのあたりが「新作講談」というのの困難さなのであるが。つまり、「韻文」で物語を書く必要があるという)当然であろう。

長くなった。

今宵はここまでにしとうございます。アデブレーベ・オブリガード。
by yoogy | 2009-01-28 21:34