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講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/netacyo.htm

今日は「千葉龍馬会」での講演+講談。

龍馬について「講演」などというのもおこがましいが、ドラマなどで混乱した龍馬像を「否定せず解説」することで龍馬についての興味・理解が深まってくれればと思う。

今年はずいぶんいろんなところで講演したし、バスでも喋ったが、外せないのは「大政奉還の意義」ということになろうか。カントの「永久平和のために」が龍馬の理念(戦争は商業にとって障害である)という立場から「平和主義<者>でない龍馬」「功利主義と理想を両立させる龍馬」を描くのが自分のテーマとなってきているわけで、それが自分のオリジナリティだと思っている。

講演ではついつい「龍馬さん」と勢いで言ってしまうが、自分にとって「龍馬」は「龍馬」である。

「さん」なんて距離を置く必要があるのだろうか?

そりゃあ、肉親とか、せいぜいご子孫の前でなら敬語も必要かも知れないが、少なくとも歴史上の人物に対しては「敬意」をあらわすことで客観的に尊敬をあらわすより、呼びすてにすることで自己と一体化する方がいいと思う。歴史上の人物の現代における存在意義の第一はそれである。一体化してその理想を学ぶのに「龍馬サンにはかなわないけれど」なんて客観化してどうする? と思う。まあ、コスプレするのとはまた話は別だが。

自分の中の思いは「龍馬を<主義者>にしたくない」ということなのだ。<主義者>が不必要だとは言わない。<主義>という明確な大義をかかげて運動を盛り上げる局面も時には歴史に必要だろう。だが、坂本龍馬の行動は<主義>として確立する以前のダイナミズムに支えられていると思いたい。だから、どこぞのドラマで「おれたちは私利私欲を捨てよう」なんて龍馬を見ると腹立たしい以前に悲しい。結局<主義者>にしたてあげることでしか龍馬を表現できないのかと思ってしまう。

なのでこの、10年も前に書いた龍馬の「普通選挙制の出会い」という「らしい」副題は、寄席でもめったにネタ帳に書かないほどに、皮肉たっぷりのものである。内容はズバリそのものなのだが、ふた言目には「身分制度をぶっ潰す」という熱血龍馬もいまひとつ好きになれない自分の最大の皮肉である。

あとから気付いたのだが、このネタは、呼吸が「熱海殺人事件」というか、つかこうへい氏の影響をモロに、というか、ほとんど盗作レベルのところもあるんだよなあ。と、書こうとして、もうひとつ、高校時代に観た「旅~生きて再び」という創作演劇にも同じ謎解きがあったことを思い出した。何にせよ、「新作講談」というより「演劇」の呼吸が色濃い話だと思う。だからわりと簡単に舞台化、映画化できる気がする。

まあ、それはそれとして、まだしばらく龍馬ブームは続きそうなので、動画アップなど頑張ってみよう。
# by yoogy | 2010-08-29 23:37 | 高座
今日はマンションの夏祭りで『坂本龍馬~龍馬志を抱く』。普段のネタ帳には「抱志」と書いている。記念すべき龍馬講談の一作めだが、まさか「辻講釈」(オープンスペースでの講談)で龍馬をかける日が来るとは・・・。(正確には、昨年、広島の福山で一度やったか)。

野外で寄席芸をやるのはなかなか難しい。もともと前座・二つ目の頃にはモロに「大道芸」で食いつないでいた身としては、あれだけ見せるための仕掛けのそろった「ガマの油」ですら観客を引き止めるのは難しいのだから。だからあの頃に身につけたテクを駆使して、いかに「本題」である講談を聞いてもらうか、の勝負になる。

さらに「本題」に入っても細かい描写は集中力的に無理がでる。それでも夜がとっぷり暮れてスポットライトで抜かれている場合は時として寄席並の場の集中が起るのだが。

それでも「本題」だけで20分、枝葉で10分、サービス部分5分(これは「講談」の後味を薄める危険があるのでいつも悩むのだが)。楽しんでいただけたようで幸い。

明日は龍馬会での講演なので、今日とは違い、かなり詳細な龍馬論にしてみたい。ただし、オリジナリティを忘れずに。

ううむ、普通の日記だなあ。
# by yoogy | 2010-08-28 20:17 | 高座
本当は【批評】と銘打って本腰入れて書くつもりだったのだが・・・。

初めて「iPad」の欠点を知った気持だ。いや、電子書籍の欠点というべきか。いままで電子書籍では、青空文庫の古典のほかは『志 孫正義正伝』『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』そして『拝金』と読んだ。購入がオンラインで済むので躊躇もなく、電子書籍だからこそ読んだのだと言えるかも知れないが…。

「書き込めない」

私は本というのは汚せば汚すほど愛着が出るものと信じている。古本屋に売ることもできず、本かノートかわからないくらいになることが本を愛することだと思っている(一種のフェチなのでマンガ以外はめったに売らない。マンガには書き込みしないから)。ところが、現時点での欠点ではあるだろうが、電子書籍は「書き込みができない」仕方ないのでメモ帳開いたり、「しおり」機能のあるものもあるが、この『拝金』にはそういうオプションがなく、それなのに三冊のうちで一番価格も高かった。なんでいまさらホリエモンに大枚千円も払わなきゃならんのか、と腹立たしいのは事実。

そして、批評を書こうにも、しおり機能もないし、パラパラとアンダーラインを引いたところを確認もできないから、まさしく「印象批評」にしかならないから「感想文」としておく。

では感想。

ホリエモンは自分が思っていた人間像を寸分裏切らない人物だった。

ホリエモンを論じる時、確実に「金」の問題を論じることになるわけで、絶対に冷静に論じることはまともな人間にはできない。彼が「何の努力もせず」右から左に数百億円を得たことを認めてしまえば、自分の人生観すら揺らぎかねない。虎の檻の中に入って虎を観察することが不可能なのと同じだ。

この『拝金』の中で、自身がモデルとおぼしき若者は、「オッサン」(これも自分がモデルなのだろう)に導かれてゲーム開発を切っ掛けに「ヒルズ族」として時代の寵児となり、ホリエモンの駆け上がった道とほぼ同じコースを成り上がる。その成り上がり方は上品なものとはいえないが、それに耐えて読み進むと、「バッファローズ買収騒動」から「フジテレビへのTOB」へと話が進んでゆく。当時の成り行きをフォローしていた人間にとっては大変興味深い。まるで客席で見ていた手品を、こんどはタネがまる見えのバックステージから見ているような。

そして、いろいろ溜飲がさがる。「ホリエモン」を時代の寵児と見ていた時、彼が壊そうとしていたものに感じていた反感を、彼の逮捕という事実によって否定されたと思っている人には是非読んでほしい。あの爽快感が戻ってくる。「滅びるべきものは滅びるべくして滅びよ」バブル時代ですら感じられなかった「進歩」というものが一人のカリスマを通して感じられる快感、とでもいおうか。

だが。

だが。

彼はしかし「英雄」ではなく「マジシャン」だったことも、バックステージに回ればよくわかる。ゆえに、その「手品」を信じてしまった人間がやがて道を見失い絶望していったことにも思いいたる。「自分が一生かかっても稼げない金をあっという間に手にしてしまう」ことも、その金が本物だとしても、それは「マジック」だったのだ。タネを知っていれば誰でもやれた(もちろん、才能と努力は確実に必要だったにせよ、ホリエモンでなければできなかったワケではない)だが、ルビコンを渡った人間はやはり評価されなくてはならない。

いま、今日、話題の日本のエライ人をどうしても好きになれないのは、ライブドア事件の時、彼は凡庸な法律論を述べることしかできなかったという記憶があるからだ。マジシャンは詐欺師ではない。法律を犯すことはもちろん肯定できないが、そこに存在するさまざまな多様性を認識した上で法律を根拠として「あえて」選択するのととりあえず法律を持ち出しておくのとでは天と地の差がある。かの人に「革命」はできまい。

ではホリエモンを「革命家」とまで評価していいのかというと、本人もわかっているのではないかな「今のままでは否だ」と。だからこそ、あえて自分の「成功」の顚末を「操られた」ものとして描いたのだと思う。

『拝金』は読まれている。だが、たとえばツイッターで読むような感想の多くは、ライブドア時代の「カリスマの夢をもう一度」としてしか読んでいなくもなく見える。あえて言う。これは彼の「自己批判の書」でもあるはずだと。


ドラマ『ハゲタカ』とこの『拝金』。ふたつのフィクションは、いっこうに出口の見えない「市場至上主義社会」の出口をクラインの壺のようにかいま見せてくれている、はずである。
# by yoogy | 2010-08-27 00:14

【ネタ帳】「外郎.売」

あまりにもブログの更新が少ないので、その日の「ネタ帳」として、高座でかけたものやケイコしたものについてつらつらと。

まずは「外郎売」。これはこうだっとしてのネタがあるわけではなく、もちろん、歌舞伎十八番の中に出てくる有名な場面。俳優やアナウンサーの基礎訓練としても多く用いられています。

小学生の時から演劇部だった自分としては(中学にはなかったけど)ほぼ頭に入ってますが、最後までスラスラ出てくるかというと自信がない。講釈師になってからは「鉢の木」という神田派のテキストがあるのでそればかりやっていましたが、講談を含む喋り一般にはこちらも重要。そして、声優の柴田秀勝さんが若い時にこれだけをやらされた話を聞いて、以来毎日欠かさないようにしています。

某大学の演劇サークルでしぼられた時、「武具馬具武具馬具三武具馬具」がどうしても言えなくて怒鳴られたので、いまでもやるたびトラウマが・・・。

まあ、こんな感じで一言だけでも書くように心がけてゆきます。
# by yoogy | 2010-08-25 22:11
【MIXI日記より転載】

※私の携帯電話はdocomoです
※私のiPadはwi-fiモデルです


http://www3.stream.co.jp/www11/softbank/ja/press/20100625/index.html

昨日、株主総会のあとに行われた、孫正義氏の講演(?)。会場で聞いた。
本人は「大ボラ」と言っていた。正鵠を射ている。「今後30年のソフトバンクのビジョンを発表します」といいながら、始まったのは「実は300年のビジョン」なんです。「私の人生にとって一番重要なスピーチとなるはずです」語り口はあいかわらずメリハリがないが、これがこの人の話術なのだろう。

繰り返されたのは「情報革命で人々を幸せにする」それが300年のテーマだと。そのために「まず、悲しみとは何か、喜びとは何か」を定義していく。その「減少と増加」が「幸せ」ということだ。なんか、どっかの総理大臣みたいなことを。

いただけなかったのは「悲しみ」の初っぱなに「死」を持ってきたことだ。統計を取ったというが、これはよくない。「死」を扱えるのはたぶん未来永劫宗教だけだ。「死」は医療問題ですらない。「情報技術」が死の問題に触れないのは大前提・・・というか「人の実存において触れない部分」が「死」の定義であることを忘れてはいかなる原理も打ち立てられないだろう。

それでも氏は「悲しみをやわらげること」を「幸福」の定義として語り続ける。なるほど、表面的な「孤独」ならば情報技術でも癒すことは可能だろう。

次に情報革命、なかでもコンピュータの発達について。株主総会であることを意識して(高齢者が多い)「脳のシナプス」にあたる「コンピュータの部品」を「トランジスタ」と言っていた。自分も講談でよくやる手法だ。間違っていなければ即時に理解可能な単語のをセレクトする。「半導体」よりもやはり「トランジスタ」がいい。

うまいのはその単位数が増えてくると、いつの間にか「素子」という表現に変わっている。「あれ? トランジスタじゃなかったのか?」という疑問を抱かせないほどにシームレスに。まるで神田陽司がブレーンに入っているような単語のぼかしかた。

とにかく、あと「8年でコンピュータは人間の脳を超える」と主張。これまた、「8年」がうますぐる。理由は上にも書いたのと同じ。株主のみなさんが「将来」として明確にイメージし得る限界をよく知っている。

その論に根拠を与えるために、コンピュータの発達史が続く。

(この項続く)
# by yoogy | 2010-06-26 18:20 | 記事