講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
カレンダー
S M T W T F S
1 2 3 4 5 6
7 8 9 10 11 12 13
14 15 16 17 18 19 20
21 22 23 24 25 26 27
28 29 30 31
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy

さて、52話+映画版「MARCO」を全部見終わったわけだが。

これこそ連続講談にするに相応しい大長編であり、可能ならば本当二十席の読み物にしたいところだ(ちなみに二十席というと「徳川天一坊」に相当する)。

「世界名作劇場」といえば、かつて「ニフティサーブ」がネット上のコミュニケーションの主流であった頃、自分は「名劇会議室」のシスオペをやっていた(・・・・と、前に書いたが、完全な思い込みだった。単に「RT会議室」今でいう「実況反省会」の司会を何度かやった程度でした)(あ、ちなみに当時の作品は『七つの海のティコ』なんですよ、ひでさん!)。自分が「オタク系」と名乗る場合、実績としてはメモラーと名劇くらいしかないのかも知れない。それも部分的にだが。

高畑勲+宮崎駿+富野喜幸という、その後の日本のアニメ界を、というか世界の映画界にセカンド・インパクトを与えた三人が最も緊密に力を合わせていた作品であり、二年後の『未来少年コナン』の原型がすべてあると言っても過言ではない。現に船の描写やモブシーン、あらゆる場面・演出に影響を見ることが可能。普段「宮崎信者」と名乗りつつ「高畑勲」をその源流に置く自分としては、この52話を細見できただけでも有り難いことだった。

講談の「石川一夢」という話に作中のクライマックスのひとつである「イタリアの星」でのシーンがあることがそもそものモチベーションなのだが
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/5takahata.htm
さて、いざこの巨大な海に舟を漕ぎだそうとする時、困難はマルコの道程にも匹敵する思いである。

アイデアとしては、本当にこの大長編を「二十席の講談」と解釈して、その何話めかを語る(読む)つもりになればいいわけだが…。いくつかの問題のひとつ、あまりマルコの口を借りたくない。

もともとほぼマルコの一人称に近い話(意図的にそうしたらしい、彼がアルゼンチンへ着いてからは、イタリアの描写も待ち受ける母の描写もないに等しい)。だが、あの名劇史上に残る名演技を自分の「声」で再現するのは心もとない。やはり子供の役は女声の有利は否めない。まあ、講談に子供が主役のものはたくさんあるが、あのアニメを見た人間を相手にするとなると・・・。

長さ、声、登場人物の多さ、何よりも短時間で、作者の意図するところを損なわず、かつ新鮮な驚きを導入してダイジェストに終わらせず・・・。

こういう困難な仕事を喜べなかったら「創作系講談師」の看板を下ろすしかアルマイトの弁当箱。
[PR]
# by yoogy | 2009-10-08 19:52 | 高座

はとバス・龍馬コース

「疑問がありましたらブログまで」と言ってしまいましたので。

ホリエモン以後、更新してなかったですし。
[PR]
# by yoogy | 2009-09-06 10:25 | 高座
ホリエモンとのかかわりは、もう数年になるのか。独演会の入場料をライブドアの株価にしたり、裁判を傍聴に行ったり。自分は「ホリエモン信者」ではない。むしろ被害者である。それでもこの本は誤解を恐れずレビューを書く気にさせるものだった。

(※SNS mixi日記より転載)


【書評】と銘打ったからには本気で書く。このあいだ、飲み屋でホリエモンと坂本龍馬の共通点について語っていたら殴られかけた。だが、昨日『ラ・マンチャの男』を見直した自分には恐れるものなどありはしない。

初めに。太ったなホリエモン。留置所から出てきた時はあんなにスラッとしてたのに。太るのは悪いことではないがBMIは正常値に保て。君は長生きをしなくてはならない。

1章・日本は幸福な国なのか/もちろんそうでしょ。水道水がナマで飲める希有な国。誰でもインターネットが使える世界一恵まれた国。
2章・貯金と借金/35年間、同じ会社に勤めて、給料が上がり続けるなんて虚構ですよ。年収300万の人が50万コツコツ貯めたって無駄です。
3章・マネーと教育/貯金を美徳だって信じてはいけません。でないと悪い人に騙されるだけです。
4章・ルールの運用は恣意的に行われる/後期高齢者医療制度って当たり前のことに思うんですけどね。年寄りばかりが選挙に行くから止めちゃったね。
5章・いつだって先行きは不安/内定取り消しとかに文句言ってるヒマがあったら、もっと前向きに生きればいいのに。

以上は「俗情と結託して」この本の内容をまとめたものである。これがわれわれの知っている「ホリエモン」の正体だ。人の心の綾や機微を分かろうともせず、金だけで世の中を割り切って、平然と従来の道徳を否定して自分の成功だけを考える、傲慢で独りよがりで能天気な「ホリエモン」である。

だが、こうしてまとめたものを信用せず、本書を読んでみれば誰もが驚くであろう。この本のテーマは「若者よ夢を持て」ということなのだから。

P143「だから誰だって、別にアキバ事件の彼だってやれたと思いますよ。会社やろうと思ったら。全然、全然やれたんじゃないですか」「全然」という副詞の使い方が間違っている。かつ不必要に重複している。この本はインタビューなので、彼が語ったまま文章を起こしたものだろう。彼の「涙」をここに見るとしたら、それは針小棒大なロマンチシズムだろうか。

本書の副題は「僕はお金の正体がわかった」となっている。元祖の資本論が「貨幣」というものの正体から労働価値と社会構造に迫ろうとしたものだからその志は同じである。ところが元祖は世界中の人間が脂汗をかいても全巻読めないシロモノで、こちらは一時間もあれば読めてしまう。

彼はいう「お金とは信用を数値化したものだ」。「信用経済」という用語を知っていれば何をいまさらと思われるだろうが、「お金」については人が檻から放たれた虎を冷静に見ることができないように客観視することの難しいものだ。「金の亡者」ホリエモンには金の本質など語れようはずもない。だが「信用」とは「自分で作り出すことのできるものだ」と展開させる時、「お金」のもっていた絶対的地位がやすやすと階段を下りてくるのを感じることができる。

お金のないものに「お金を作ることなんて簡単だ」と「あの」ホリエモンが言っても説得力があるはずがない。「お前は犯罪者だろう」「たまたま運が良かったんだろう」「才能がある奴には何とでも言える」後ろに行くほど金の絶対的地位は下がるわけだが…「信用」を作ることなら、誰にでもできるだろう。それは人との関係の中で作られる。もちろんネットを通じてだってかまわない。「たとえば旅行をしたい時、お金があれば簡単だけど、お金がなければヒッチハイクをすればいい。僕はさんざんやりました」ヒッチハイクは「犯罪」でもなければ「強運の持ち主」でなくてもできる。ましてやまさか「才能」は必要ない。ただ人とのコミュニケーション能力があれば…それだって、ヒッチハイクをしながら身につけていけばいいことだ。

つまり、「お金」とはそういう「信用創造」の延長にあるものだ、というのだ。「能力があれば」ともちがう「コネがあれば」というほど卑しくない。そして「信用」こそが「お金」の本質であるということは難しい理屈でもない。

『ハゲタカ』というドラマの中で老職人がつぶやく「金なんて…紙きれじゃないか…ただの紙きれだよ」職人が「ホンモノ」であるから言える強がりでも妬みでもない一言。その「紙きれ」のために人は血と汗を流す、時には他人のものまでも…。それは「紙きれ」が「絶大な信用」を纏っているからだ。紙幣は国家の、通帳の数字は銀行の、ネットのトレードは各取引業者の。「お金はもともとバーチャルなものだ」それを実践において理解することは、「虎は猫と同じだ」と虎の喉をなでてゴロゴロ鳴らすよりも難しい。だが、観念において理解することは誰にでもできる。

前回の『徹底抗戦』を読んだ時、ホリエモンは実は「金に執着が薄いのではないか」と思ったが、今回その思いを強くした。彼は本の中でも書いている通り本当に「月10万円で暮らす」ことに「恐れ」も何も感じていない。遠い昔、ホリエモンを信じた根拠「具なしのお好み焼きで暮らしたことがある」はまだ消えてはいないようだ。

日本では酒造メーカの「一位」と「二位」の会社が合併するという。従来なら考えられない動きだが、実は世界的な順位で考えると何も不思議なことではない。今後日本の内需は100%減少に向かうのだ。「三丁目の夕日」のように人口が増えると同時に豊かになっていった時代の再現はもう有り得ない。ノスタルジーに浸るより「もっと前向きに生きる」ことを強いられる。その時、われわれは「観念のホリエモン」となることを避けるには「実像のホリエモン」の言葉に耳を傾けるべきではないだろうか。「信用」を創造するためには「情報」は不可欠なものなのだから。

「若いうちは、思い切ってレバレッジをかけて、大きく勝負すればいいと思います」その根本は決して「額に汗しない投機的な勝負」ではなく「自分の信用を創造するコミュニケーションスキルの開発」に基づく勝負。つまりは「ボーイズ・ビー・アンビシャス」と彼は言っているのだ。どこかしらに痛みを伴いながら。

・・・・・・・・・

↑この書評は中途半端といわれるかも知れない。
(ただでさえ長くなりすぎたので)
「ヒッチハイクができるからって、何百億もかせげるようになるのか?」なると思う。というより、この関連がわからないと自分で金を稼げるようにはなれないだろう。彼の結論が100%妥当だとは思わないけれど、お金に縛られないためにはお金を別の角度から見る必要があることは間違いないだろう。
[PR]
# by yoogy | 2009-07-31 19:05 | レビュー
(※SNS「mixi日記」より抜粋)


http://tagenmatome.blogspot.com/2009/06/blog-post_29.htmlまた「やる夫シリーズ」定点観測?

AAで構成された「やる夫シリーズ」にはまって久しいが、今回は新趣向だったと思う。舞台『ラ・マンチャの男』をなんとAAで表現したもの。

もともとがミュージカルなので、要所要所にyou tubeの楽曲が挿入されている。それがまた、有名な映画版だけでなく、世界中の舞台やレコードがまざっていて面白い。

『ラ・マンチャの男』は、たぶん人よりずいぶん多くの舞台を見てきているはずの(生涯トータルでいうと自信なくなってきたけど)自分にとって、理想の演劇のひとつ。ただ、最初に見たのが映画版だったせいか、松本幸四郎版の舞台の印象よりもそっちの方が強い。

ドン・キホーテといえばいわずと知られた「風車と戦った妄想老人」の話であって安売り店の名前ではないはず。

だが『ラ・マンチャの男』にはさらに一工夫あって、作者のセルバンテスが風刺劇を演じたために牢屋に入れられ、宗教裁判にかけられるまでの間に、牢屋の囚人たちとともにドン・キホーテの劇を演じるというもの。

拙くもテーマをまとめると「現実という牢獄と空想という自由の世界、しかし空想だけに生きることは破滅でしかないという現実」をみごとに組み合わせて描いている。

今回、AAとして読んでいろいろなことがわかった。これは映画や舞台で見ただけだと見落としそうなこと。

「…苦しみ、悲惨、残酷さ。神の作り給いし子らの嘆きをありとあらゆる場所で聞いてきた。…捕虜も兵士も経験した。戦友たちは戦いの中で、あるいは捕虜となって鞭打たれ、死んでいった…栄誉も、立派な遺言もなく死んでいった彼らの瞳には、ただ、<何故>という困惑だけがあった。<何故死ぬのか> ではない。<何故人間らしく生きられなかったか>だ!」
(AA版より抜粋)

「わかった」というのは、これが1965年初演で、劇中のセルバンテスは「40代」だと語っていたということだ。

すなわち、45歳と仮定すると、1945年は25歳ということ。

ミュージカルの作者・デイル・ワッサーマンがこのセルバンテスのセリフに託した思いが何だったかということ。

現実をありのままに受け入れても答えはない、現実から遥かに隔たった答えには破滅しかない。人は牢獄の中で夢見る力と、現実の中で戦う勇気を兼ね備えなくてはなならない。

やはり言葉にまとめるとつまらない。

「現実には」セルバンテスは宗教裁判になどかけられていないし、それどころか、徴税人のような役で人々に嫌われていたはずだ。だが、想像力は「そのような記録が残るには裏がある」と考えてしまう。現実のセルバンテスと劇中のセルバンテスの像が重なる皆既日食のような体験、それが観劇をするということ、空想を現実に重ねるということだ。そこから力が生まれ、そこから勇気も生じる。

やはり言葉にまとめるとつまらない。

ふと気がつくと、劇中のセルバンテスみたいなことをやろうとしている自分がいるわけで。江戸時代の馬場文耕先生のごとく「打ち首」を目指す、いや、目指さずとも恐れぬ表現者でありたいものだ。

http://www.youtube.com/watch?v=RfHnzYEHAow&feature=related


いまも「ドラゴンクエスト」の「クエスト」はここからの発想だと信じてる。




※なぜわざわざ転載したか。その理由は明日の日記に…
[PR]
# by yoogy | 2009-07-30 19:45 | レビュー

楽しい仕事

浜松市民吹奏楽団の定期演奏会の司会をしてきました。

司会・・・といっても、メインは二部の「講談と吹奏楽のコラボ」といった企画なんですが。

「遠州道中膝栗毛」と題して、浜松の観光名所をヤジさんキタさんで回る。「花が踊ってるみたいだねえ」というところで「花のワルツ」演奏とか・・・。そして、二部のメイン「大序曲1812年」チャイコフスキーが、フランス軍のロシア遠征(ナポレオンが「ロシアの冬に負けた」って言ったってやつね)の挫折と祖国の勝利をテーマにした壮大な曲。そのモチーフや状況の解説を講談で(ちゃんと講釈台を置いて)解説したあと、演奏。

実は、音楽とのコラボ、それもここまで本格的なものは初めてだったので不安もあったのですが、もう、ただただ感動しました。

中学の時、トロンボーン吹いてたんだよね、吹奏楽部で。中学だけでやめちゃったけど、夏の合宿や、チューニングメーターをピタッと止めるロングトーンだけはしっかり覚えてる。

講談部分のリハーサルなんて大して時間取らないんだけど、前日入りして、3時間ほどの稽古にもみっちり付き合いました。当日も。もう、右手が指揮棒を振りたくて振りたくて。プロの前じゃ言えなかったけど(言ったかな?)クラブでは指揮者で、高校まで、合唱コンクールは全部の機会で指揮してたから、音楽の生演奏なんて聞くと絶対手が止まらない(中学の最初の先生がストコフスキーばりの棒を使わない演奏だったし)。目障りになっちゃいけないから、右手隠すのに苦労した。

ただし、音楽的なことはぜんぜんわからない。テンポがずれでもしなければ「上手いなあ」としか思えないし。

当日の朝、客演指揮の元・N響の多戸幾久三先生の「もっと目をこっちへ」という言葉に芸の上での啓示を受ける。「譜面台を見てちゃダメだ」表現が、どこに向かって、誰に向かってなされるのか、わかっているつもりでも、やはり一流の人の現場の言葉は心に響く。

そして最後の「大序曲1812年」はもう、感動の嵐だった。ナレーションに、もともとはなかった「ロシアに春が来た」という台詞を追加して完結させたのは成功だったと密かに思う。もちろん、そんなものがなくても演奏から伝わってくると思うけれど。戦争の曲なのに平和を・・・いや、そういう次元を超越した「讃歌」になっている。チャイコフスキー自身は気に入らないところもあったらしいが、芸術とは平坦な意味のやりとりの次元からの「跳躍」だということを肌で感じた。

打ち上げにも一部参加させてもらった。途中で抜けるのにわがままを言って「三本締め」に手を拝借した。
ううむ・・・流石だ。一人の乱れもない完璧なアンサンブルの三本締めだ。

帰りの電車の中では「木陰の散歩道」と「1812年」をただただ繰り返し聞いていた。たぶんこれから気分が落ち込んだ時には、これを聞けばたちどころに回復するような気がする。

それほどの楽しい仕事だった。

浜松市民吹奏楽団のみなさん、ありがとうございました。


c0111096_2183989.jpg

[PR]
# by yoogy | 2009-06-30 21:10 | 高座
先日「執筆日記・1」を書いてアップしたはずなのだが、何故か消えている。まあ、ミクシィではよくあることだ。もちろん、アップしたつもりでクリックを間違えたのかもしれない。

5/30(土)の「講談革命ヨウジ!」実に半年ぶりであるのに、すでに三週間を切って二週間にならんとしているのに、いつものことながら坂の向こうが見えない。

『汗血千里駒』はなにしろ作者が龍馬存命の頃の江戸藩邸で生まれたくらいだから、さぞや新鮮な印象とともに明治文学らしい(というか江戸戯作文学を引きずった)冒険活劇なのだろうと勝手に想像していた。っていうか、一読してから講談にしようと思いたち、それから独演会のタイトルにしろよ、と思うのだが。

少女マンガ家の大島弓子先生に「タイトル先」という執筆方法がある。先生は自分のマンガの「内容が決まる前に」タイトルをつけてしまうのだそうだ。そしてそのタイトルに合ったマンガを描く。タイトルを説明するようなマンガを描くはずはないから上手くいけばそのギャップが実にいいのだそうだ。

凄くわかる。だから、自分が内容が決まる前に題材を決定してしまうのは自分なりの「タイトル先」なのだ。

だが、それは大島先生ほどの才能がある人のやるべきことだったのかもしれない。毎回毎回、ガマの油のごとく汗をかくことになってしまう。

なにしろチラシにも大々的に「日本初の講談化」と銘打ってしまった。ここまで書いて「えー、今日は汗血千里駒ではなく」はできないわけだ。

やっとのことで今行き着いている場所が「格差社会と龍馬」なんだが。

本当は映画『ハゲタカ』公開にあわせて「ハゲタカ」としての龍馬を描くのが面白い。だが、それは三年前の前作である「メッセージ・フォー・ホリエモン」と内容が重なりすぎる。あれから何本か短編を書いたが(龍馬の鐘、とか)やはり独演会でやる以上は堂々たる幕末絵巻の名シーンであるべきだ。

『汗血千里駒』は土佐出身の作者が、龍馬を自由民権運動の先鋒としてとらえ、話自体も龍馬の甥の坂本直寛をナポレオン三世にたとえて自由民権の闘士として描くことで終わっている(リョウマ・ザ・サードかよ!)。

あと二カ月ほどあれば、自由民権運動の歴史から勉強するところだがまさかそうもいかんし。と、いうことは…。

『汗血千里駒』はハッキリと土佐の上士と郷士の階級闘争を打ち出しているし、それを実質レボルシオンしたのは龍馬である。となると、どこを描くべきかといえば、やはり…。

あと半月、いや、最低でも一週間前には完成したいので、あと10日。あと10日で、歴女からニート・ヒッキーからもちろん龍馬ファンまで納得のお話を書くのか。




え? 誰が?




うおおおお。
[PR]
# by yoogy | 2009-05-13 12:12 | 高座

ゲームって楽しいよね

c0111096_1182196.jpg


(株)ゼロページの寺崎さんの主催するゲームイベントに遊びに行った。

阿佐ヶ谷のロフトaには一度行ってみたかったのだが、丁度よい機会。遊びにと言っても楽屋から入るので入場料はモニョモニョでウーロン杯代を600円払っただけ。しかもちゃっかりチラシを折り込ませてもらう。

あーしかし、思えば、他のイベントにチラシ折り込ませてもらうのって久しぶり。いかに営業努力が足りなかったかよくわかるな。

で、いちおうゲストということでステージにも。格ゲーや落ちモノにはついていけないので、モデルプレイしたのがこのゲーム
http://sgrk.blog53.fc2.com/?no=1114

元(ドラクエの)チュンソフトの丸田氏が紹介しているゲームで、参加者がカードで「村人」と「狼」の役に分かれて誰が「狼」かを当ててゆくゲーム。

「タブラの狼」なんて言われても初耳なので説明書を読むと…私が人生で一番楽しかったゲームの記憶とほぼ同じ要領のゲームだった。

長くなるけど、それは学生時代、なぜか合気道サークルの「合宿」じゃなくてたぶん「遊びの旅行」に行った時、みんなでトランプを使ってやったゲームの発展形だったのだ。いや、そのゲームの解説はさすがに三行じゃムリか。

そしてロフトaでは、客席からも10人を募って公開プレイ。村人役として盛り上げたつもりだが…。何よりもやっていて楽しかった。

写真はその後のバックギャモンの時の様子。前からルールを知りたかったのだが残念ながら見てるだけではわからなかった。

再認識したのはゲームの楽しさだった。ゲームというのは実はすべて「ロールプレイング」に行き着くと思っている。将棋は将軍になるロールプレイ、すごろくは旅人になるロールプレイ、トランプは分析参謀になるロールプレイ。

それは、不自由な社会と肉体に運命的に埋め込まれた人間が自分が自由な存在であることを確認する行為である。

芸術は理性に開けられた窓なのだが、その意味ではゲームもまた芸術の一分野であることは間違いないだろう。問題はその麻薬的な常習性にあるのだが(特にお金がかかると時として不自由から別の不自由に移動するだけになってしまう。自戒自戒)。
[PR]
# by yoogy | 2009-05-07 11:10

小田原北條五代祭り

今年も五月三日がやってきた。

もう12年めにもなるのか、北條五代祭りのオープニング講談。

出番はほんの少しなのだが、毎年楽しみにしている。

市民数千人が武者行列を組んでパレードで参加する、その根本の「物語」を語らせていただくのは身にあまる光栄・・・というより「講談」というもののもっている魅力の本質を体現できる気がするからだ。

かつてここでこのようなことがあった、自分たちは、その延長を生きている。そのことに誇りを持とう、その意味を未来に活かそう。そういう、ともすれば説教くさいテーマが、五月の陽光の下で語られると少しも窮屈なものに感じられない。

毎年、ここでの出来が、自分の語り部としての到達点をあらわしているような気がする。

もう10年も前に、歴史見聞館で耳にした「長宗我部元親」の名前。振り向くとそこにはガングロ・ギャルの姿が・・・あの時から今日の「歴女」ブームを私は予測していました。本当です。

自分達のルーツを「感じる」ことは、それを否定するにしろ肯定するにしろ、自分が社会的存在であること、歴史的存在であることの自覚をうながしてくれる。これは実に大きなことだと思う。素晴らしいことだ思う。



来年もお呼びがありますように。
c0111096_14165282.jpg

[PR]
# by yoogy | 2009-05-04 14:14 | 旅行

坂本龍馬の年に向けて

とりあえず最初の大ブロシキを広げてみた。

http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy

おっそろしいなあ。
「マニア」のいる世界で「俺の方がマニアだ」宣言をしたらどんなことになるか。たとえば「ガンダムに一番詳しいのは俺だ!」と宣言したら、途端に「それ以上のマニア」が数万人は押し寄せてくるのではと…。

「歴史マニア」の世界がアニメマニアとどのくらい共通するか、それすら見えてはいないというのに。

たとえば「脱・竜馬がゆく」という有名な(? 自分の中では)サイトがある。ここの「龍馬クイズ」はABCランクに分かれていて、Aランクこそ全問正解できるがBになると三問は落とす、Cともなれば、20問中5問間違ってゲームオーバーである。

まあ、龍馬のファンは好戦的な人は少ないとは思うのだが、それでも、来年に向けて「龍馬」を全面に出してゆくことは大変なことだ。

しかし、この荷は背負わぬわけにはゆかない。

そのことを確信したのは、来年の『龍馬伝』の演出は一昨年『ハゲタカ』を演出した大友啓史氏であることだ。『ハゲタカ』は外資ファンドの日本人マネージャーを主人公として、金と人間のかかわり、いや、日本の「第三の開国」を描いた秀逸なドラマで自分の中ではここ数年のベストワンに選んでもいいほどの作品だ。来年の大河は福山雅治の力なしでも大ヒットは確実だろう。あと、脚本家は自分と同年齢、一年かかって勝負をしてみるのも面白い。

何にせよ、よほどのことがない限り来年は「龍馬の年」になる。ここで気合を入れずにいつ入れるというのか。

「日本幕末化計画」とは、自分のブログのタイトルである。

しかし、現実には「幕末」なぞ来ない方がよいに決まっている。特に明治期の混乱の大きさを思うにつけ、変革はゆるやかに超したことはなく、そのスピードが激しければ激しいほど反動も含めて、時代は津波のように無慈悲に被害者を生んでゆく。

これが二年前、サププライムローン問題の前ならば「それでも日本は金融開国を達成するしかない」と主張できたのだが、意外と世界は柔軟だった。「金融工学」は蒸気機関のほどの「必然力」を持つものではなく、世界はこれをコントロールし得るのかも、するしかないのかも、と一息ついているのが今の状況だ。

しかし、システムが停止した訳ではない。一夜にして国家、いや、国家群を破綻させてしまうほどの荒い波が何を契機にまた起こるとも知れないのである。

そう、「日本が開国」することが問題ではなく「日本を含めた」世界が変わらなければならない。

すぐ前に「ガンダム00」の「人は変わらなければならない」とする結論を「単に人類の<来世>に期待する思考停止」とバッサリ斬ったばかりだが、「変えていかなくてはならない」と能動形にする限りは称賛していたはずだ。

こうなってくると「幕末」を現代と比べる中でキーとなり得るのはやはり「理想としての」龍馬だけと言えなくもない、「理想としての」。

司馬先生のセリフだが「現代において地球人類のことだけを考えていると言えばどうしても嘘がまじる。だが彼は当時において日本全体を考え得た」と「理想としての」龍馬を見ていた。

それができるか? その観念に達することが? というチャレンジをこれから一年かけてするのである。





[PR]
# by yoogy | 2009-04-14 22:14
「方谷庵」日乗」にしようと思ったが、やめた。ググッてみると、実在したから。どうも「亭」の方が「庵」よりは立派な感じになってしまうが、うしろが「日乗」なのだから荷風先生のひそみにならって「亭」をいただこう。なぜ「方谷」かは司馬先生の『峠』の397pを見なくていいよ。

日本橋ご案内の仕事。珍しく少人数なのでやりやすかった。本当は人数が多い方が割り増しが発生するのだが、定員ギリギリならこのくらい(11人)の方がやりやすい。お客の人数が少ないことを喜んでる時点でとりあえず芸人としては変態性としか言いようがない。

日本橋「貝新」にてお客様様のお土産のアミの佃煮の数を間違えて自分の分がなかった。ホスト側はなくて当然と思っていたが、あんまり欲しそうな顔に見えたのか永谷の同行の社員の方がそっと自分の分をくれた。ちょっと涙が出るほど嬉しそうになる自分が嫌いではない/いや断れよ。夕食の友に。甘い/うまい。

日曜の本牧の高座にかけるつもりで執筆開始。龍馬シリーズの最古の時代に属する話。今までだと、5月の独演会に向けてたっぷり二月も書けて書いたに違いない話。一日で書いて一日でかけるとすれば30倍のスピードアップだ。ネットを引くと、さっそくニコライ大司教の日記が日本語で出版されていることが判明。九巻もあるが、武蔵野中央図書館にも存在する。ああ、ドストエフスキーとの交流のくだりだけでも読んでから、とかそんなことを考えているから30倍かかる。どうせ芸の力で勝負する芸人じゃなさそうだし、だったら理想通り、一年365日別のネタをかける方をめざせと思い断念。まあ、そのうち読みに行こう。

原稿は規定量の半分まできたが、長ゼリフのところでピタリと止まってしまった。山本琢磨(後にニコライ堂を建てる)が龍馬に別れを告げるのだが、ノリノリで書いてたのに「何でこんなことを言うんだ?」とわからなくなった。明日午前中には最後まで行く。いや、行くってば。

やはりラム酒を飲む前に日記は書いた方がよさそうだ。
[PR]
# by yoogy | 2009-03-13 22:01 | 高座