講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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アニメ化記念(14日からNHK)

感動がよみがえってきたので、前にも書いたけど、また書く。

ネタバレではないが、核心部分。

「マネージャーの仕事は、体系的な分析の対象となる。マネージャーにできなければならないことは、そのほとんどが教わらなくても学ぶことができる。しかし、学ぶことのできない資質、後天的に獲得することのできない資質、始(ママ)めから身につけていなければならない資質が、一つだけある。才能ではない。真摯さである」(この部分、ドラッカーの『マネジメント』からの引用として出てくる)。

(↑(ママ)とは原文のまま引用しました、という意味。ダンウロード版。誤植が見逃せないのは一生治らない)。

このあと、主人公の女子高生は泣く。それもホロリ、ではない、嗚咽である。号泣といってもいい。

(ママ)の記号がさらに答えを見えにくくしている。絞りこもう。

「才能ではない。真摯さである」

人生を数十年生きてくると、この言葉の意味への感受性は鈍麻していく。ヘタをすると否定したくなってしまう。「ケッ、何いってんだ。才能がない人間がどんなにみじめな思いをするか知ってるのか? 女子高生じゃあるまいし、経営の神様もとんだ甘いちゃんだぜ!」と吐き捨ててしまった時、人は真に人生の坂を下り始める。おそらくは大して高くもないだろうその場所から、確実に。

本文に戻る。


みなみは、その部分を繰り返し読んだ。特に、最後のところをくり返し読んだ。
----才能ではない、真摯さである。
それから、ポツリと一言、こうつぶやいた。
「……真摯さって、なんだろう?」
ところが、その瞬間であった。突然、目から涙があふれ出してきた。
それで、みなみはびっくりさせられた。自分がなんで泣くのか。よく分からなかったからだ。しかし、涙は後から後からあふれてきた。それだけではなく、喉の奥からは嗚咽も込みあげてきた。


悲しさでなく口惜しさでなく、まして体のどこかが痛むのでなく、この涙の記憶があるものは幸である。前にも書いた「世界は君の手の中にある」と誰かに言われたことの感動。それが涙の正体である。

金融工学の批判的研究が止まっている。だが「経営学」には「工学」ほどの冷たさを感じない。むしろ封建時代の「武士道」に近いようなものではないかとこの本を読んでいると思えてくる。

現実的に書かれた理想ほどすばらしいものはない。その理想を忘れさえしなければ現実もまたその美しさを反映するはずである。スティーブ・ジョブズの人生をなぞっていてもそう感じる。

「だったらよう、その真摯さでメシくってみろよ。世の中はまず金、それがなければ才能と、コネと、運がすべてよ。その三つを補うのが努力ってヤツよ。ま、その努力の才能すら、おれにはないがな、ハハハハハハ」そう捨てぜりふを吐くもう一人の自分にこそこの本を繰り返し読ませたい気がした。

真摯さ、とは何か。
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# by yoogy | 2011-03-10 15:35 | レビュー
まで一月ほどしかなくなった(第一弾は非公開に近い形になります)。

もうすでに、昨年の春に木馬亭で上演しているので、「もうできてる」といえなくもない。やったね!

しかし、あれは本当に純粋に「スタンフォードでのスピーチ」だけに基づいて即製したもので、はたしてあれを定番にしてよいのかどうか。

(よい翻訳がなかったので記事で↓)
ttp://blogs.itmedia.co.jp/closebox/2009/03/post-12a0.html

あのスピーチは確かに、彼自身の思想にのっとって自らの生涯をまとめているものだから、あれだけで十分と考えてもよいとは思う。だが、それはどこかで「宮崎駿はラピュタで終わった」と訳知り顔をする連中に自分が怒りを感じるように、ジョブズの理解者には不十分ではないのだろうか? と思えてきた。

「講談ビル・ゲイツ」を10年前に書いた時、NHKの「新・電子立国」を中心にパソコンの発達史を学んだが、そこにあったのは、まるで「日本の夜明け」をめざす維新志士のように「坂の上の雲」をめざす明治青年のように、明るい未来を確信して突き進む巨大な青春の群像だった。

知名度や資産ではビル・ゲイツの勝ちだろう。だが、そう言い切ってしまうと「アルプスの少女ハイジ」のアニメ版を宮崎駿監督作品だと思ってる連中に自分が怒りを感じるように、ジョブズの信奉者には納得できないにちがいない。

高畑勲=ジョブズと言い切っても、やはり林檎教徒は納得すまい。

「親指シフトキーボード」をいまだに使用している自分にはその嘆きはよくわかる。

だから、ジョブズを理解することが真にIT革命のもたらしたものの本質を理解することにつながるような形で補足していかなくては意味がない。

『フェイスブック』はまだレンタルはされんのか。

「IT革命」ってなんなんだ。いまや21世紀の世界動乱の本質的な始まりを感じている、考えなくてはいけない問題だ。

日本の「ITの寵児」ホリエモンは「ツイッターがあれば国連が助けにきてくれるから怖くない」と言い切った(皮肉と同時に「言い切った」意義は認めよう。その後必死にフォローに走っているようだが、撤回したらこんどこそ終わりだと思う)。「ITの成功者」孫正義は「300年かけて人類を幸せにする萌芽」だと言い切った。イオリア・シュヘンベルク。

それらの原点は、やはりジョブズに求められてしかるべきはずだ。

さて、どうする。

大隈重信とちがって、スポンサーはいないぞ。
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# by yoogy | 2011-03-09 15:33 | 高座
私の講談(まあ、演技、だな)の雰囲気を知る人は、ちょっと思い出しながら読んでほしい。

「これが今の世か。まっとうに働いてきた人々を苦しめその身を縄で縛りあげ、先に何の希望も持たせない。勤皇だ佐幕だと騒いでみてもしょせんは武士同士の内輪もめ。いつの間にか民をここまで追い詰めてしまった。…いったいわれわれ武士は、<人のために生きる>はずの武士は、今日まで何をやってきたというのだ!」
 
血管切れそうになりながら言います。

もともとは大学の校友会の依頼で書いた大隈重信。しかし、せっかく書くのなら5年後くらいの大河ドラマをめざせ! とリキ入れて書きました。構成的にはクライマックスが話の真ん中の前にきちゃうんですよね。つまり、大隈候(龍馬「さん」に対抗して支持者の前で呼ぶために考え出した呼び方)のもっとも劇的な局面、かつ普遍的な場面は慶応四年(明治元年)にきちゃうんですよ。亡くなったのが大正11年ですからねえ…。

その「劇的な局面」とは英国公使パークスとの宗教論争のシーンだ。この論争は実に深い。まだ「ヤソ教・バテレン」と忌み嫌われていた時代、信者は死刑になる時代に、大隈重信はマタイ伝の10章34節を引いて「宗教は必ずしも平和をもたらすものに非ず」(私が平和をもたらすためにきたと思うな、私は剣を投げ込むためにきた)と喝破している。めったに書かないのだが、実は私のペンネームの「さきむすぶ」はこの聖書の一節から来ている(割き・結ぶ)。大隈さんすげええええええ! である。

しかし、この「国の現状を普遍的な真理より優先せよ」という理論は、もしかすると現在の独裁制・独裁体制を取っている多くの国の正当化にもつながるのだ。つまり、大隈候は普遍性よりも現実性を優先させた、これこそ真の政治家というものだ。だが、それゆえに、彼には他の英雄たちにあるべき魅力がない。つまり「現実的であるがゆえに」。

ならば彼の魅力とは何なのだろうか、とさぐったのがこの講談といえる。CDも無事完成しそうだし、そのことはまた、ゆっくりと書きたい。

3月12日(土)昼席・本牧亭トリ

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# by yoogy | 2011-03-06 15:30 | 高座

毎年書いてきたので、今年も終わりだし、恥知らずにも書いておこう。

スリムクラブ、が笑いを取ったのは「禁忌を破る笑い」の線上に見事に乗っていたからだ。それを代表するのが、一回目、二回目に一番ウケたワードだ。
「放射能」「民主党」。このふたつの単語を「街で出会った挙動不審の巨漢」と「他人の葬式に押しかけてきた巨漢」がおどおどとしながら言う。しかもその発音はあきらかに標準語でも漫才のオーソドックスな大阪弁でもない。今年最も緊張感のある「沖縄のことば」である。

どうだろう。上の単語と登場人物を並べ替えて間を埋めればいかなる社会的なメッセージを構成することも可能なことにお気づきだろうか? それが「お笑い」という、しかも観客さえ緊張させるというその頂点の舞台で展開する。もちろん、そこで「笑い」を成立させた、即ち見事に「禁忌」に触れながらその当然予想されるメッセージを軽やかに回避する、アクロバチック飛行もかくやという技術はホンモノだと思う。だからスリムクラブが優勝してもなんら異論はないが、逆に笑い飯の優勝にも十分うなづける結果となった。

「笑い」は恐ろしい。

高校の頃、演劇部ではこんな言辞が聞かれた「泣かすのなんか誰にでもできるが、笑わすのは100倍むずかしい」いかにも関西の高校生の意見である。いや、これは現在泣かせるのが好きな自分の「芸」を生業とする自分もうべなうところはある。それについてはタモリさんが「いい話特集」みたいなコーナーで言ったことに尽きる。

「人の死んだ話をされて泣かなかったら人間性を疑われるでしょう?」つまり、死を扱えば泣かせる方向に誘導するのは比較的たやすい。笑いにはそれほどのしっかりした曲尺・鯨尺はないということだ。

あえていうならば「笑い」は「禁忌と、その予想される緊張感を回避する快感」である。問題は「禁忌」をどう作り出すかである。

パンクブーブーのネタをみてみよう。二本とも「怖い相手とケンカになる」話であった。本来予想される悲惨な暴力は最初から回避が予想されている。あとはその過程でどれだけ「禁忌」に近づいていくかの技術問題になる。

決勝に進めなかったピースも「タマシイ」を「吸う」というところで受けていた。これはスリムクラブの方法論に近い。

その点、笑い飯の作り出す「禁忌」にはかなり高いオリジナリティがある。それを長年作り出してきたという事実が加点されてもなんら不条理ではないし、二本のネタを見れば「これからも作り出してゆける」という可能性を感じさせる。「今日、ここで、一番ウケた」人間を採点するのでないなら、結果はあれでいい。なにしろオリジナリティのある「禁忌」は回避の方法すら一般論では作り出せないのだから。


あ~あ。評論家じゃないのになあ。

自分のケイコをしよう。
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# by yoogy | 2010-12-26 21:13 | 高座
そんなわけで、チラシができました。
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実は演目は最後まで悩んでたんですが、昨日、東京かわら版の情報締め切りが8日だったことを知って急遽決めた訳です。こうなったら「大隈重信漬け」の後は「宇宙漬け」でいこうかと。また「一年遅い」感じですね。でも、坂本龍馬は「一年早くから」準備してて結局儲かりませんでしたから、もうどうでもいいです。

「宇宙」案外というか当然、現代の閉塞状況を解くカギのひとつとしてあっていいんじゃないかと思っています。それについての自信の根拠が30年以上前に読んでいまでも暗記しているこの一節です。

「宇宙開発に使う金があるなら、もっと福祉など役に立つことに使えという人々の意見を聞くと、どうしても私は腹を立ててしまうのだった」
(A・ペリー『一万年後』より、うろ覚え)。

スキャンダラス嗜好の強いカッパブックスの本でしたし、科学的な根拠がどれほどあったかこれから読み返すことになりそうですが、この本は間違いなく一人の少年の絶望を救いました。

『ノストラダムスの大予言』は1973年、そりゃ今にして思えば笑い話だろうけど、小学生にのしかかった未来への絶望は、同級生にオウムに上祐史浩を出すほどの現実力をもっていた。そこへ現れたのが75年の『一万年後』だった。それは曇り空の上に広がる蒼天をありありとイメージさせてくれるものだった。

宇宙開発は何もテラフォーミングして移住計画をというような「壮大な夢」だけではない、無重力や完全な真空を安価に手に入れられる宇宙ステーションが出来るだけでも膨大な科学技術の発展が見込まれる、そのもたらす恩恵はもちろん医学など日常の「役に立つ」もので満載だ…というのも35年前に読んだ通りの記憶でしかないが。

「敵」を想定したもとにみんなが危機感をもって「団結」を促されるより、同じ坂の上の雲をみてみんなが希望を持って進む方がよいに決まっている。それは国単位でしかり、地球単位でしかり。「温暖化」や「仮想(じゃないと思うけど)敵国」に基づかないでドーンと夢をブチあげる。小学生の時に持てた夢が今も夢足りうるか、そういうことを考えながら「はやぶさ」講談のバージョンアップをはかってみたい。

まあ、自分もホリエモンや孫正義と同じ種類の人間なんでしょうね。収入は一億倍ほどちがうけど(泣。







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# by yoogy | 2010-12-11 14:37
第一章「正しいことをする」

・・・実際、このレビューを書くのは昨日書いた通り「必要なお勉強」ではあるのだが、やはり現実逃避でもあるのでけっこう長期にわたることになりそう。イッキ読みはもったいないので。

2004年、アメリカにハリケーンがきた時、現地では物価が10倍以上になり、便乗値上げが横行した。「横行」と書いたがこれが無条件に「正義に反する」という判断は実は誰にもできるものではない。2ページ目にはその理由が書かれている「値上げのおかげで国中から物資を売ろうとする人間が集まり、結果として現地の人々は救われる」と。

(ああ、くそう。このあとかなりの長文を書いたのに、たったひとつのキーの押し間違い全部消えてしまった)(その内容は、自分が阪神淡路大震災似たヨウ経験をしたことだった)。

だが、その「市場」が機能するまでに数十倍に値上がりした生活必需品が最もまずしい人たちに届かないのは事実だし、それが生命の安全にかかわるケースもあるだろう。

さて、この時施行された「便乗値上げ禁止法」は正義か否か? あなたがフロリダ州議会の議員なら、この法律に賛成票を投ずるかどうか?

実は世の中で「正しく」行動するためには根本にさかのぼって考えることができなくてはならないということがわかる。

サンデル教授が話題になった時、ネット上でも「哲学なんて机上の空論」みたいな意見が多く見られた。「哲学は諸学の母」などとはなんという「現実」とかけ離れた物言いかと思われがちだ。だが実はその「現実」を考えるためにはやはり「根本にさかのぼって考える」必要がある。江戸時代のような安定した閉鎖社会ならばそうそう「正義」がゆらぐこともなかっただろうが21世紀の先進国では間違いなく「正義」についての哲学は必要となっている。それが今回のブームの本質であろう。

昨日書いた「線路上の五人を助けるか一人を犠牲にして五人を救うか」の問題は今日現実にある問題だ。アフガニスタンで一人の農夫を見逃したためにゲリラに戦友を皆殺しにされた兵士は農夫を殺すべきだったのかどうか。

現代の日本に生きていればこの兵士のような選択を迫られることはまずあるまい。だが、少なくとも国際問題を論じようとするなら、いや、たとえば選挙の投票行動ひとつにしても、やはり筋道を立てて「正義」について考えるよすがはあるにこしたことはないだろう。


(50/432P)
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# by yoogy | 2010-09-18 18:28 | レビュー
さあ困った。

『志高く 孫正義正伝』『もし高校野球の女子マネージャーがドラッカーの「マネジメント」を読んだら』『拝金』に続いての電子読書。

この本は「ハーバード白熱教室」で有名になったマイケル・サンデル教授の書き下ろし授業である。正直、10年に一冊だけ本を読むならこの本だろう、というぐらいの本だと信じている。だが・・・いかんせん、不見転で買ってしまったが、しおり機能も付箋機能もついていない「原始的電子書籍」で買うべきではなかったと後悔している。この本は卒論を書く時のメインテキスト並に書き込みをしながら読んでいかなくてはならない本だと思う。

だからといって、書籍版を買い直す余裕もないし、そこで、このミクシィ日記に詳細にレポートを書いていくことで補うことにする。

今日はその前夜祭。

まず「正義」をなぜ自分が問題にするか。

「自分」というのは「オタク系講談師」のことである。

そもそも「講談」というのはかなり単純な勧善懲悪の物語を基本としている。悪いヤツはあくまで悪く、正義の人はあくまで正義。そうでなければ正義が悪を負かす爽快感がない。つまりは多分にアリストテレス的なカタルシスの演劇構造を本質としている。

だから、たとえば赤穂義士で大石内蔵助が吉良を討つことに疑問を持ったりしては「講談」そのものの伝統を否定することになるといっていい。自分の独演会のタイトルが「講談革命」なのは、当然そういうことに構造的疑問を投げかけるためで「テロリスト大石内蔵助」などの作品では確実に「敵討ち=正義」を否定している。
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/netacyo.htm

だからこそ「正義」というものに対して突き詰めた考察ができなければならないと思っている。

最近少し自分にとっての魅力が減じてきたといえ『ワンピース』というマンガで「海軍」というかの世界の治安維持勢力が背中に「正義」と大書きされたトレンチコートを着ている。このマイケル・サンデルの著作は、いわば世界でいちばん売れているマンガ『ワンピース』と同じテーマを持っているといっていい。

サンデル教授の例え話は面白い。「もし、あなたが電車の運転手だとして、電車が暴走して5人の線路作業員をいましも轢こうとしている。だが、もし待避線へ入ればそこには作業員は一人だけしかいない。あなたならそのまま進むか、待避線へ進むか?」この場合、多くの人は「退避線へ進む」と応えるだろう。だが、退避線の作業員にも何の落ち度もないのになぜ犠牲を当然とできるのか? こう問われた時明解に答られることができるだろうか。

考えたところで答の出ない問題を考えることが、実は現代には最も必要なことなのだ。

ちょいと不足を感じながら今日は終わり。
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# by yoogy | 2010-09-17 18:25 | レビュー

『坂本龍馬と新撰組』

永谷ホール(Fuホール)9/10夜席。

「ヨウジ版龍馬伝」隔月の第三席。文久三年の京の動乱の中で出会う龍馬と新撰組の山南敬介の物語。

沖田総司は神田陽司と漢字二文字違い。ほかには寺山修司や山田玲司(マンガ家)などがいる。

正直、新撰組への反感に満ちた話になってる。まあ、悪役が芹沢鴨なのはそれが全面に出ないようにとのごまかし。いわゆる「鴨フラージュ」というヤツですわ。

高座では冗長になるので触れなかったが、実はこの話の山南敬介にはモデル、というか、想定した人物がいる、イラクで命を落とした奥克彦大使(死後の特進による大使)である。自分と同郷で大学も同じ、彼が戦地・イラクで何を思い命を落としていったのか、そんなことを考えながら書いた記憶がある。

私の「龍馬伝」はほとんど平成に起こった事件を投影している。というより、現在を語るための素材としての龍馬なのだから。

さて、NHKの龍馬伝には「龍馬さんカコイイ」以上のメッセージがあるのだろうか?
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# by yoogy | 2010-09-11 22:40 | 高座
(※ mixi日記より転載)

(【メモ】と断り書きのある時は、あまり文章に自信のない時です)

NHK-BS2で見つけ、懐かしさで見始めたが、けっきょく四時間見てしまった。

感動したのは、30年経っても「何一つ、テクノロジー的な進歩の跡がない」。そりゃ、BGMとかがMDとかデジタルデータになってるかも知れないが、イキナリ裸舞台とか、高校生がまさに体ひとつでやってるのは何も変わってない。

中でも弘前中央高校演劇部の『あゆみ』(作・柴幸男)には感動した。内容にはもちろんだが、「全編歩き続ける演劇」というものを寡聞にして知らない。ということは「演劇は、いまだに形式として新しく形作られ続けている」ということだ。

誰の、何の文章だったか「形式とは、天才が作り出した方法が踏襲されるうちに形式となる」とあった。『あゆみ』が「歩き続ける演劇」としての「形」を成すとは思えない。ということは「個人の発想のレベルですら、新しいものが作り出され続けている」ということでもある。

そして優勝校は、群馬県立前橋南高等学校「黒塚 Sept.」 こちらは形式としてはよくある形なのだが、表現のスキルが秀逸。

高校生には絶対の強さがある。それは「世界の限界を知らない」ということだ。どんなに醒めたようなことを口にしたとしても、実感として「世界に超えられない壁がある」ことを実感している高校生など稀なはずだ。演劇は世界を一から構築し直す作業だから、そこに描かれた世界にもいきおい「壁」がなくなる。児童画と比べてはさすがにすまないが、児童画における表現と発想の自由さに似たものがあるだろう。

あと「演劇」というものが完成していく過程において、いかに多くの「普遍的なもの」を拾いあげていくかということ。時間をかけて作るものだから密度が勝手に高まっていく、むしろ、密度が高まらないと維持できない(なにしろ同じことを繰り返すのだから)。

創造過程を繰り返す中での耐えざる発見。これはやはり、映画にはない特徴だといえるだろう。なぜなら問題は「過程」で、映画の撮影中にあまりに全体的な創造が起こると、過去に戻って他のシーンを撮り直さなくてはならなくなる。もちろん、映画が創造的行為の余地を残さないというつもりではないが、監督の脳内にあるイデアが統一されていなければ作品足りえないだろう。

これも出典を忘れたが「舞台は役者、テレビは脚本、映画は監督」という区分は、その「創造的過程」の現実的局面において出てくるものであろう。その意味で、高校演劇というのは、高校生がその創造の最高責任者になる経験をするという点で実に教育的なものであろう。

美空ひばりがレコーディングする時、テイクワンしか録らなかったという伝説は彼女の中でその創造的過程が終了していることを意味する。レコード(記録)とはそういうものであり、たぶん、彼女の歌は千回が千回違ったものだったに違いない。

うーん

ムッシュムラムラ。
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# by yoogy | 2010-09-05 19:03 | レビュー

『生きる悲哀』

木馬亭高座。

ネタ帳を見ると、他の講釈師は、ちゃんと新しいネタをかけている気がするが、自分は「新ネタ」ではなく「新作」を書いているので、「ネタの維持」のためには古典もかけなくてはいけない。そしてキチンとできた「新作」はこの木馬亭でもかける。「木馬亭でかけられないものは<講談にあらず>」と決めているのは、講談の席だとどうしてもお客様に「これは実験的作品です」と甘えてしまうから。

さて『生きる悲哀』は、大正時代の教育者が不良少年を立ち直らせるというただそれだけの話。それだけ、といいながらきちんと生徒との接近過程が描かれている。30分たらずの話でこれだけ充実した起承転結があるというのは、「大正モノ」とはいえ「古典」に位置づけていいと思う。

自分が二代目山陽から習って、どこか改変を加えたとすればラストシーン近くを「地の分」ではなくセリフにして、いささかスタニスラフスキーチックな「演技」の場面を足したくらいか。自分で泣くタイミングのない話にお客様が感動させる力があるとは思えないから。案の定、電車の中でネタ繰りしてて、泣く。

本当は「雑草」という単語にからめて「元ジャイアンツの上原」というくすぐりがあるのだが、もう古びて使えないかなあ。

それと、この話にはちょっと困った思い出が、いや、思い出でなく今も進行中なのだ。

7年ほど前、なんとこの話の登場人物の子孫からメールをいただいたのだが、それがパソコンのトラブルでどこかに行ってしまったのだ。なんとか復元できないかと7年間さがし続けている。

万にひとつでも、このブログをごらんになったら、ご連絡ください。

http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy
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# by yoogy | 2010-09-03 18:38 | 高座