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講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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前に書いた「講談スティーブ・ジョブズ」は純粋に
http://sago.livedoor.biz/archives/50251034.html
の「メッセージ」のみから発想した。

なんとかより充実したものにしようと思っていた矢先、震災がやってきた。
被災した訳ではまったくないが、その後頭の中を地震と原発が駆け回っている。こういう時に、いかにして別テーマの物語を書けるだろうか。

「夢はかなう」と主張することが自分の人生の超課題である。その主張のために身命を賭して足りるものだと思っている。ジョブズはこう言っている。
「もし今日が人生の最後の日だったら、今日やろうとしていることは本当にやりたいことなのか?」と自分に問い、何日もノーが続いたら何かを変えなくてはいけないと。これはある意味過ぎた問いだ。「何日も」が何年も続いても人は生きてゆかなくてはならない。だが、この問いに意味はある。「やりたいこと」の設定が間違っていると質問自信が成り立たなくなってしまうからだ。

「今日も会社に行きたいのか?」と問えば「今日は休みたい」というのが普通だと思う。どんなに手塩にかけた仕事でも「もう一息ついてから安楽椅子で完成の報告を聞きたい」と思うだろう。現場に行けばそれなりにアッという間に時が過ぎるなら、それこそ地球が100人の村なら1人か2人なみに恵まれているのかもしれない。

ジョブズは自分自身への信仰が深いといえるのではなかろうか。ペプシ・コーラの社長、ジョン・スカリーを引き抜いた時の有名なセリフ
「残りの人生を砂糖水を売って過ごすのか、それとも世界を変えるチャンスを手にするのか」。魅力的なセリフだ。

だか、いま引用していてフト前からの思いが形になった。

ジョブズがやがてスカリーにアップル社を追い出された理由もまたこのセリフの中にあるのではなかろうか、と。

コカコーラの全米シェアを追い抜きペプシを一位に押し上げたスカリーはその夢を達成されたことで簡単に放棄してしまった。そういう人間だから逆にジョブズとは夢を共有することができなかった・・・・?

「メッセージ」だけから想像していたジョブズは、もっと穏やかな策士、木下藤吉郎みたいなイメージだったのが、この本を読んでからずいぶんと信長に近づいた。じゃあスカリーは明智光秀かというとスカリ関係ない考察になってしまう。

つまりジョブズは思ったほど人格者ではない。

それを知ってなお、彼が魅力的である点はどこか。

それを探すことで、前回の物語を補完することができそうな気がする。




(つづき)

時間は直線的にしか進まない。人類がおそらくその発生時から望んできたことは時間を逆方向に進むエンジンの開発であろう。言葉も、文字も、絵も、写真、映画、パソコン…すべてがこのエンジンにいたる虚しい試みに過ぎない。

さてさらにジョブズ。「メッセージ」の中で最も重要な示唆を含んでいると思う部分がここだ

「未来に先回りして点と点をつなげることはできない。君たちできるのは過去を振り返って繋げることだけなんだ。だから点と点がいつか何らかのかたちでつながると信じなければならない。自分の根性、運命、人生、カルマ、何でもいいから、とにかく信じるのです。歩む道のどこかで点と点がつながると信じれば、自信を持って思うままに生きることができます。たとえ人と違う道を歩んでも、信じることが全てを変えてくれるのです」

カルマ、という単語が入っているのがジョブズらしいが、つまり彼は「タイムマシーンは必要ない」と結論を出しているのだ。点と点をつなげるのはそこを通過した後からだが、必ずつながると信じよ。と。これは果たして「成功者だから」言いえた言葉だろうか。そうだと仮定してみよう。これはただの自慢話でしかない。そうでないと仮定してみよう。彼はアップルを追い出された時には「成功者」ではなかったはずだ。部屋の電気を消して一晩泣き続けるような「勝ち組」はいない。彼は確実にその時は「敗者」だった。一財産築いていたことがどれほどの満足を彼に与えていたかは知るよしもないが、彼はそこで留まることなく進み続けた。

「現在」の話しか自分は講談にはできない。いまの日本の惨状と、これから進む茨の電車道をジョブズの思想で解決はできないだろうか。「ピンチをチャンスに」と人はいう。災害の死者には決して適用できない言葉だが、死者にはもとより言葉は届かない。生き残ったもので彼らを朽ちさせぬこと以外に道はない。あらゆる絶望と困難に直面して人は「夢はかなう」などと言いえるだろうか? 自分が始められるのは「かなう」と信じることでしかない。すべてを失って、時間の流れの遙か後方の丘の上にたって「あの点はこの点とつながっていた。無駄ではなかった」と言いえる境地があるのだろうか? 「ある」と信じることでしか物語は成立しない。

そうなんだ。それが「悲劇」であったとしても「物語」は中立で残酷で無慈悲な現実に「条理」を与える装置でしかない。そうすれば少なくとも「不条理で無意味で虚無な」現実に心を殺されることはないはずだ。

なんだ、スティーブ・ジョブズのやってきたことと自分のやるべきこともまた、同じではないか。

よし、これで出発点は確認できた。

あとはゴールだ。が。
# by yoogy | 2011-04-13 18:04 | レビュー
今日本牧亭でかけたら、10分の長さに育っていた。まだマクラにしかならないが。

テレビで見ると、フランスでは畑の隣に原子力発電所があっても完全に平気になっているという。

この問題は「業が深い」。昨日、宇宙関連の問題にかまけて書いた通りだ。

この間ネット上で議論した内容を忘れないうちにメモしておこう。


原発の是非の議論をすぐに「ライフスタイル」や「文明論」に直結するのは間違いだと思っている。『未来少年コナン』のように、「人々は誰でも緑の中で暮らしたいと思っているのです」と32年前に宮崎駿が書いた理想もそうそう簡単には適用できない。

本人がどこかで使うかも知れないので名は秘すが、ある芸人の親戚が「こんな状況だからこそ」原子力発電を推進しなくてはならないという。そして引退していたのがわざわざ現場に戻っていったという。いわく「いま原子力発電を手放したら発展途上国はいつまでも貧しいままだろう」という使命感に燃えたのだそうだ。

私自身は「火力で補えるものは火力でおぎなえばいい。何も文明論にまで話を広げなくてもいいと思う」。これは少し前までならかなり発言しにくかった。この日記は最近ブログに転載しているが今日はどうするかな? 後出しジャンケンのようだが、ミクシィの日記でここ何年か「地球温暖化(人為的CO2主因説)懐疑論」に触れてきたことを説明せずには暴論に見えるかもしれない。

思えばこの問題とのつきあいは古いのだ。

高校生の時、生徒会の副会長をやっていたから、いまから31年前だ。ある日、大阪市立大学(だったと思う)のおにいさんたちが、生徒会室にやってきた。

「われわれは原子力発電に反対するものです」と、大阪弁とは微妙にちがったイントネーションでまくしたてた。その頃には『未来少年コナン』の洗礼が終わっていたので、まだバブルも迎えていないながら「エコ」にも感心があったし、自分としては熱心に聞いていたつもりだ。

最後のそのおにいさんたちは「この運動を通じて、国家体制の変革を」とまで言い出した。これはかなり聞き手が熱心なのを見てとったのだろう。

高校生の時、けっこう「反体制の闘士」だったように思う。一番熱を入れたのが「再制服化」制度に対してで、高校が私服可だったのが完全に制服に統一しようとする「逆コース」の時期で、高一ながら先頭に立って学校側と戦っていた。(30年後に夏と冬あわせて二本しか履けるズボンのない人生を生きるとも知らずに)(いまからでも日本は自民服を強制してほしい)。

とにかく、「国家体制の変革」を高校生に説く大学生がいた時代なのだ。学校のどこかには「県尼全共闘」という文字もあったと記憶している。

おにいさんたちが帰ったあと、一年先輩の書記長がポツリとつぶやいた
「でも、僕は原子力しかないと思うんだがなあ」。当時の進歩的な高校生ならすこし背伸びしてこういうだろな、と一年下の自分は客観的に聞いていた。

福島原発一号機の着工日は1967年である。アレは、自分が物心つく前からあそこにあるのだ。

そうそう、ネットの論争だ。「火力じゃダメだ」と押しまくられた。それはCO2問題ではなく「石油の確保が国家の安全に直結してしまう。エネルギーの根幹を不安定な石油に依存するのは危険だ」「いつオイルショックと同じことが起こるかわからない」この反論は愚かしい。ほうほう、今回の危機がオイルショック以下だというのかね? 実際、オイルショックと同じ総量規制が発動される上に汚染の問題が無限に広がっているではないか。

原子力発電の問題を、CO2の問題とも、ライフスタイルとも、政治運動とも切り離した上で見直さなくては未来は見えてこないのではないだろうか。だが、50年以上の時の中で、この問題には人の手垢がつきすぎている。こんなやっかいな問題を「物語」にする術などあるのだろうか?


(この項、いつか続く)
# by yoogy | 2011-04-11 07:19 | 高座
JAXAの講演会を聞いてきた。

会場は満員。二部制にしても入りきらず、USTREAMの中継も入っていた。


金星探査機「あかつき」のプロマネ中村正人教授と、「はやぶさ」のプロマネ、時の人となった川口淳一郎教授。

もう第一線で責任者となる人が「宇宙戦艦ヤマト」だの「アンドロメダ」だのといった単語をはさんでくるので(しかも正確な使い方で)ああ、やはり21世紀は来ていたんだな、と実感した。

自分は金星改造計画(テラフォーミング)に必要な水が「あかつき」の再投入と観測が成功すれば再発見されるの可能性はないか? というかなりアナクロで浪漫主義な質問をしたが、案の定会場の笑いをかった。まあ、少しは共感もまじっていた気がするので…。

川口先生の話は震災のお悔やみから始まり、途中何度か自作の短歌が出てくる。ああ、やはり講談で人情味のある「おかしら」とするにふさわしい人であったと再確認。

講演の中で、いかに小惑星探査が地球上の科学に役に立つかを強調されていた。たとえば惑星の組成がわかることは地震科学にもつながるし、原発の危機管理の方法論も宇宙科学の中に多くの示唆があると。

それでも・・・おそらく、自分がもっと震災に近いところにいて「宇宙」の話を、本職の人間は別にしても、目を輝かせて聞きに行く連中を見たらタイトルのように心で吐き捨てるかも知れない。被災者、ではない、「もっと震災を近くに感じている」たとえば去年「はやぶさ」の講談を書かなかった自分のような人間が。

しかし…今日、「宇宙科学」には宇宙の探求以外の使命を感じたのだ。

科学がもたらす恩恵をことさらにあげなくても、いまこうして、パソコンで文章を作りそれを発表している、そのすべてが科学の果実である。われわれが存在している基盤のすべて、たとえ電気もガスも通らず、住民がゴムでできた人工の足の裏すらつけていない地域の民ですら科学の影響を受けていないものはない。

その最大のものはやはり兵器とエネルギーで、人を殺す仕掛けと重いものを動かすカラクリは人類をこんな遠いところまで運んできた。そして、その実利性ゆえに常に欲望を載せて。

今日、原発の是非を口にするつもりはない。だが、原発がもたらす果実は禁断の実というに値するほど美味である。脳内の「危険」というキーワードをすべてマーカーで塗りつぶしてもなお、そこに人間のありとあらゆる欲望を呼び寄せる甘い香りがただよっている。これさえあれば貧困から脱却できる、これさえあれば隣国より強くなれる、これによってどれほどの人を救うことがでるだろう。魔法の指輪を求めて人々は血眼で争うことになる。そして農民は畑を忘れ職人は技を忘れ寺院には蜘蛛の巣がはることになる。

「宇宙科学」がもたらす実利は原発に比べてなんと少ないことだろう。みないまはまだ、必死に畑を耕し、純粋な農夫たちが目を輝かせて苗木を植えているところだ。川口先生ですら「フールツは遠い将来のことでしょう」と言ってはばからない。

ともすれば「ムダ金だ」と叩かれる。あの健気な孝行息子(はやぶさ)がいなければ間違いなく仕分けされていた。果ては武器転用だ、軍事応用だろうと痛くもない腹をさぐられる。

しかし、実利が少ないからこそ、他の応用科学にはない進歩を見ているのではなかろうか。冷戦時代の巧妙争いもあったが、月の石が名誉以外のどれほどのものを地上に運んだか(もちろん純粋な科学的成果はのぞいて)。はやぶさが命と引き換えに持ち帰った微粒子が、他の衛星がもたらした数枚の写真が、人々の世界観に影響する以外のどれほどの実利をもたらしたか?

だが、そこが素晴らしいのだ。

目の前に果実がぶら下がっていたら、ISS(国際宇宙ステーション)のような理想的な協調体制は生れていただろうか。はやぶさが微粒子ではなく巨大な資源を持ち帰るほどの力持ちだったら人々は涙する前にお土産を奪い合ったにちがいない。

そして、そういった天空に近い分野だからこそ、科学は純粋に発達していけるゆけるのではないか? そこから下りてくる技術を、より実利をもたらす科学に応用することが(危機管理システムの例のごとく)もっとも正しいことのように思われる。

もちろん科学技術はあらゆる面で諸刃の剣であることを認めつつ、人を殺す武器を作るための科学から最も遠く、過激な表現をするならば「(禍々しき)神を殺すための」科学がそこにはあるような気がする。

エマニエル・カントは言った。「この世で素晴らしきものは、天空に輝く星とわが内なる道徳律である」と。直感は常に正しい。不純なもの以外は。





(補足・カントはもちろん哲学者だが、「カントラプラス星雲説」として天文学にも足跡を残している)。
# by yoogy | 2011-04-09 21:59 | レビュー
日本にははっきりとした道徳の支柱がない。

もちろん、営々として築かれてきた習慣・慣習による道徳は厳然と存在する。それは今回の震災の後のともすれば「従順」とまでいえそうな冷静沈着な態度にもみて取れる。

しかしそれもすべて、横並びの「空気を読む」といった判断力と実行力によるもので、いわば成文法としての「道徳の支柱」はないのだ。キリスト教国における「裁きの神」などという絶対的な存在がない。「お天道さまは見てるよ」というのは規範としては強いものだが、「天」が何を考えているかは常に独自の判断に任される。例の有名なジョークで、船の遭難にあった時、「みなさん飛び込んでいらっしゃいますよ」と耳元でつぶやくと一斉に飛び込み始める、というアレである。

批判しているわけではない、それが実存する国民性というものであり、緊急時にパニックを避ける役目も果たすがひとたび集団心理が走り出すと暴走する場合もある。

さて『ケロロ軍曹』。吉崎観音のこの作品はすでに雑誌連載で13年目をかぞえ、テレビアニメのシリーズが七年を経て先日終了した。

この作品がこれほど長く続いた理由のひとつが、ガンダムなどのより人気の高いアニメ作品のパロディをやりたい放題だったということ以上に、アニメの観客層への、一種の規範の中心としてのアピール力を持っていたからだと自分は見ている。

それは二期のEDの「やらなきゃいけないことより、今は君と手をつないでたい」という歌詞に象徴されている。

十数年前のバブルの頃、走れば走るだけ世の中は繁栄し快楽は手に入った。そんな中で走らないのは馬鹿げたことだった。今からは想像できない、公務員が不人気職業だった時代。「24時間戦えますか?」と聞かれて「もちろん」と答えられない人間はその道徳的観念をも疑われた。いや、これは言い過ぎ、当時「道徳」などという観念は不要に近かった。格差などということすら問題にされなかった。

やがて、バブルははじけ、長い反省の日々がやってくる。我々は何を残してきたのか、失われた10年が始まり、積み上げてきたものに虚しさの風が吹いた。

「われわれは本当に成すべきことをやったのか?」自問自答しても答えはない。

ケロロ軍曹、は侵略者である。特殊先行部隊として地球に侵入したが、本隊に見限られ、各自特殊能力を持つ有能な軍人でありながら、地球においてその力を発揮する機会を持つことはできない。中にもケロロ軍曹。アニメ版の最後までその有能さを見せることができず(有能だから隊長であるはずなのだが)侵略作戦はことごとく散文的な思いつきに過ぎず当然失敗する。

そして彼は日常に埋没する。侵略するべき相手である日向家で家事を分担させられる以外は人目を気にして外出もできず、豪華な基地の中でガンプラを作りゲームをしアニメを見続ける。彼の姿が構造不況という言葉すらとっくに忘れ去られた時代の若者の呻吟する姿であることは論を待たない。

そして、彼はその怠惰とささやかな享楽を「肯定されている」のである。

なぜなら、彼の「やるべきこと」は「侵略」だったからである。

アニメ版の最終回で、総司令官に武力侵略を強いられた彼は強弁する。
「侵略は完了しているのであります。われわれは彼らと<ともだち>になったからであります」。

その友情は実は決して甘いものではなく、時には別の侵略者に対して生命だけではなく地球そのものの運命をかけるようなと大バクチも打っている。

すべてが矛盾しているが、すべてが調和している。ささやかでさえあれば享楽を得ることは決して「悪」ではない。21世紀に若者になったものたちへの、あまりにも優し過ぎる行動規範を与え続けたゆえに人気を保ち続けているのだ。

古く『うる星やつら』『究極超人あ~る』といった作品が与えてくれた居心地の良さ。しかしその裏にあるべきひとつ前の時代の行動規範を軟体動物の強さで否定してしまう世界観。


またひとつの時代が静か去ったことは間違いない。現実の時代とともに。
# by yoogy | 2011-04-08 18:33 | レビュー
震災発生を挟んでこの一カ月の日記のほとんどを、このブログにアップしました。



いろいろな反省の意味をこめて。


楽天的だったおのれへの懲罰もこめて。


すべては、これから始まるのかもしれません。

# by yoogy | 2011-04-03 15:55