講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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(以下は、クローズドな日記に書いたものです。表現が一般的でない部分はご容赦ください)

おっと、今日は「引きタイトル」ではないです。

マスコミは相変わらず論理的ではない堀江批判を続けている。動画のないインタビュー内容も「ほら、この男はこんなに悪いヤツですよ」というメッセージしか聞こえないものばかりだ。テレビを買おうとされた後遺症だろう。マスコミがインターネットに利権を奪われたくない気持ちは理解できるが報道が客観性を欠いては自分の首を締めるばかりだ。

昨日の日記のレスの中で「マネーのことを不勉強というより勉強したくないのだ」と書いた。いつものレトリック先行のようにも思えたが手前味噌ながら本質を突いたかも知れない。

「金のことを客観的に論じるのは難しい」ということを、フリーセックスの問題に例えてみる。おっと、講釈師ともあろうものが蟹行文字はいけねえや、「性的放縦」としよう。

こうして例えてみるだけでどんなにこの問題を論じるのが困難かがわかる。

堀江が金について行ったことを「勉強したくもない」という心理は、たとえば「性的放縦」が横行し始めた頃のマスコミの道徳論にもたとえられる。「性的放縦」を抵抗もなく受け入れた若者たちを論じる時、しかめつらしい顔をしてその非を口にする世論はしかし自分たちの欲望から自由ではない。

もし、新しい時代の「性的放縦」が正しいことで、それを謳歌する若者たちが秩序の破壊者ではなく新しい秩序の構築者だったとしたら自分たちの根本が否定される気になるだろう。言葉にすると「自分たちが我慢してきたことがただの愚かさだったというのか?」。もちろんそんなはずはなく、そんなはずがない以上、新しい時代の担い手は「間違って」いなくてはならない。その論理など知りたくもない、なぜならそれはいかなる論理をもってしても「正しくあってはならない」からだ。

もし、堀江の行為が正当だとしたら、さして苦労もしたように見えない、高貴な血もなければ美しさも持ち合わせない自分と同じ人間が簡単に数千億を動かすのが新しい時代だとしたら、自分たちが血のにじむ思いで稼いできた数千円の日給と、そのために放棄してぎた可能性は何だったというのか!

だが、この二律背反は最も重要な前提を考えに入れていない。堀江の手元に今も残る数百億円と自分が血と汗と土下座で手に入れた○万円は本来比較できない、ということだ。こんなことはマルクスも柄谷行人も読まなくても、本来世間にものを言う立場の人間は理解していなくてはならないことだ。しかし論理だけを行使して結論を導くには、金の問題は「人間的でありすぎる」のだ。

「性的放縦」の例に戻れば、出会ってすぐ肉体関係を結ぶ関係と、死を覚悟し戦地に向かうのに接吻のひとつもかわさぬ関係とは本来一般化して比べるようなものではない。だが、人はそれを比べ得るものと思いたがりがちだ。貨幣と性との類似性を論じている余裕はないが、「金」の問題の方がよりいっそうこの罠にはまりやすい。

確認しておくが、自分は「性的放縦」を「新しい、正しい秩序だ」などと考えたことは一度もなく、従って堀江が築こうとしている新秩序にもまだ正しさなどは見えていない。ただ、それを固陋で俗情と結託した(おおおお! まさか人生でこの表現を使う機会があろうとは!すがひでみいいいい)道徳観念でしか批判できない現状には情けない思いがする。だからついつい擁護にまわってしまうのだ。

「男女七歳にして席を同じゅうせず」と本当は言いたいのだがそれが自分にもウソをつくことだと認めねばならないように、「金は額に汗してかせぐものだ」という批判がどれほど有効でないかを
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/99horie.htm
では言いたかったわけだが、それを受け入れられるものにするほどの創作力と芸があるかどうかは別の話。

そして、もし現状の「金」の意味について知ってしまったら、自分が崩れてしまうという恐れが蔓延するのが一般の世論である以上、マスコミも固陋な古老を演じるしかないことも認める。ただ、明日の判決に対する反応に、少しは理性を見せてほしいと思うのだ。

もういいよ、堀江擁護派で。ただしその秩序破壊の、別に恩恵を受けたわけじゃねえぞと言いたがる自分の、そこが限界だろう。
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by yoogy | 2007-03-15 20:47
『ディープ・インパクト』をTVで見た。連戦連勝!…じゃなくて…。

最初から見た訳ではないし、某掲示板で中継しながらなので本当は正当な評価ではないかも知れないが、そしていちおう感動の涙を流しはしたのだが、冷静になると「なんだこりゃ?」。

……と、文句をつけようとして、1998年の映画とわかって怒りは半減した。だが、それだけに責任も重い気がした。まさしく「国のために命をかける」映画。いや、それが悪いという議論に誤解されるのもイヤなので厳密に「アメリカという国の最も楽天的な精神を、生命を費やす自己犠牲という最も重い問題にあてはめた映画」。ひとことで言えば「ぬるい!」である。

某掲示板でも書いたのだが『ザ・デイ・アフター』を見た時の感想の延長だった。核攻撃と通常攻撃のまったく差のない描写が気になるのはあるいみ日本の原爆描写との対比に過ぎぬのかも知れないが、とにかく暴動が起こらない、人間の負の部分を描かない。たとえば主人公が恋人(書類上結婚したけど)を連れて逃げる時、だれも彼のバイクを奪おうとしない。「別の場所では醜い奪い合いが」という想像もシャットアウトするほどの能天気な画。わかってますよ、リアルに醜さを描いたところでそれはリアルではないし、ならいっそのこと、最も美しい部分を描こう、映画なんだから…スピルバーグらしい美学を否定はしません。

だからこそ、アンタはこういう大きな問題、リアルな事象に転化できるテーマを描くべきではない、と断言したい。『シンドラーのリスト』をどうしても見る気がしないのは多分、私のスピルバーグ評価が正しいという予測ができるから。しょせんSFに目くじら立ててと言われそうだが、なんといってもこの映画は「世界=アメリカ」にしか見えない、それも「最も楽天的なアメリカ」のみ。ニューオリンズ洪水の時あれほど自国民を見捨てたアメリカ…いや、もしかしたら1998年当時はもっともっと「人情(ヒューマニズム)」のある国だったのかも知れないし、スピルバーグもその喪失の危機を感じていたのかも知れないが…そう、J・ディーンの『ジャイアンツ』がベトナム戦争前の素晴らしいアメリカを描いていたように。いや、それは褒め過ぎだ。

そしてもうひとつ、
http://www.t3.rim.or.jp/~yoogy/mireni.htm
の通り、私は世界を動かしているのは「物語」だと信じているので(ジョージ・ソロスがブッシュに破れたことはその証明だと思っているので)この映画を2007年から振り返る時、なんというよくできた戦意高揚の映画だろうかと見えてしまう。過去の地点に立ってもスピルバーグに責任なしとは思えない。わが子の映像に別れを告げ、あえて「特攻」という言葉は避けるが自己の命を犠牲にし、その次では大統領(モーガン・フリーマンを大統領にすることで人種問題を全部まるごとエクスキューズしたつもりになってるのにも反感を覚えた)の賛辞が続く……。

ぬるい、ぬるいぞスピルバーグ!
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by yoogy | 2007-03-11 06:47