講談師・神田陽司のテキストブログ


by yoogy
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芸人が芸のことを、自分のことにしろ他人のことにしろ、語るよりは「芸そのもの」をしなくてはならないと思う。

それを承知の上でM-1の感想を書いてみたい。

「今のお笑いはレベルが高い」というのは誰が言ったのか知らないが、たぶんベテラン呼ばれる層の方だろう。そしてこの「レベル」は何の「レベル」か。あえて一断面を切り取るならば「知的」レベルと呼んでしまえるかも知れない。

自分が「お笑い芸人」でないことを前提として語るが、衆知の通り「お笑い」は知的な行為である。「人間以外に笑う動物はいない」というのは誠にその通りで、演劇行為によって喚起される感情を「泣く」「怒る」「笑う」に分割するとやはり「笑う」が一番難しい。

関西出身のせいもあろうが、高校時代、クラスで人気ものの友人が「泣かすことなんか誰でもできる、笑わすのはメチャクチャ難しい」という「論評」をしていた。当時から「泣かす」方が好きで芝居をやっていた自分としては反発を感じながらも「関西的価値観」ではそうだろうと認めざるを得なかった。

えんえんと演劇論を続けないために途中を端折るが、いわゆる「マンザンブーム」以後、「笑い」という芸が貨幣的価値を持つようになった。「儲かる」という意味と「商品」よりも流通力の強い「商品」という意味である。

そうなるとどうなるか?

世に溢れる才能が「お笑い」に集中する。

奇跡的な運動神経を持った若者が「野球」を目指す動機と「クリケット」を目指す動機は知名度だけではない。ロコツにいえば「金の流れるところに才能は流れる」。ゲーム業界を含むIT業界の発展はそういった「良循環」が引き起こしたものだ。

結論を急ぐと(最近日記が長くなりすぎるので)、元演劇ジャーナリストの目で見ても、演劇に流れる才能がお笑いに流れている。と、同時にお笑いの方法論が革命的に進歩してきている。

昨日M-1で優勝したコンビの方法論はあまりにもわかりやすい。日常生活で出会う経験を支配するコード(規則)を非日常のものにスリ代えるというものだ(冷蔵庫の買い換えと結婚、小さな盗難と殺人など)。これはたとえばかつてつかこうへい氏が殺人事件を支配するコードを別のものに置き換えた手法にも匹敵する、タネを明かせばわかりやすくても、それを作品とし成立させるのには高度な技術を要する。

もともと「笑い」とはこのコードの「揺らぎ」に伴うものだ。別に例によってフロイトだのベルグソンだのの定義をひっぱってこなくても「ダジャレ」そのものがそうだろう。「パンツ破れた」「股か」は「又か」と予測されるべき流れを「股」に置き換える「驚き」によって笑いを生ずる。

実は「泣かす」「怒らす」にはこの「揺らぎ」を必要としない。悲しいことをそのまま悲しく再現すれば共感を呼ぶ、腹立たしいことを忠実に伝達できれば事象そのものの力で怒らすことができる。唯一笑いだけが「伝達する」だけでは再現できないものなのだ。悲しいことを泣きながら話せば人は同情の涙を流すが面白かった経験を笑いながら話しても人は笑わない。それは「揺らぎ」の起こった文脈を別の場所に再現するのが困難ということである。

それと、昨日の感想として、「揺らぎ」は「安心感」を前提として笑いにつながることもよくわかった。日常的なコードが乱れる時、普通ひとは「不安」になる。それが「笑い」につながるのは「安心感」が上回るからで、「つかみ」はその「安心感」を観客に持ってもらうためにあるのだ(昨日の審査の流れ全体を見ても、いかに観客が「安心感」を欲していたかは一目瞭然だ。その意味では司会者が「面白かった」とコメントするのは厳にいましめられるべきだったのだが・・・)。

本来「お笑い」はその安定感を前提に「揺らぎ」を起こすもの。つまり日常に「さざ波」をたてることで成立する芸だったはずだ。それがかなりの「大波」を起こす必要があるほどの構造的な変化が起こっている。たぶん業界全体がそういう新入の才能に引っ張られてレベルアップしている。

「お笑い芸人」が人がうらやむようなステイタスになっていっているのは、つまり事の理の当然ということである。

【追加】
芸人が芸のことを、自分のことにしろ他人のことにしろ、語るよりは「芸そのもの」をしなくてはならないと思う。

それを承知の上でM-1の感想を書いてみたい。

「今のお笑いはレベルが高い」というのは誰が言ったのか知らないが、たぶんベテラン呼ばれる層の方だろう。そしてこの「レベル」は何の「レベル」か。あえて一断面を切り取るならば「知的」レベルと呼んでしまえるかも知れない。

自分が「お笑い芸人」でないことを前提として語るが、衆知の通り「お笑い」は知的な行為である。「人間以外に笑う動物はいない」というのは誠にその通りで、演劇行為によって喚起される感情を「泣く」「怒る」「笑う」に分割するとやはり「笑う」が一番難しい。

関西出身のせいもあろうが、高校時代、クラスで人気ものの友人が「泣かすことなんか誰でもできる、笑わすのはメチャクチャ難しい」という「論評」をしていた。当時から「泣かす」方が好きで芝居をやっていた自分としては反発を感じながらも「関西的価値観」ではそうだろうと認めざるを得なかった。

えんえんと演劇論を続けないために途中を端折るが、いわゆる「マンザンブーム」以後、「笑い」という芸が貨幣的価値を持つようになった。「儲かる」という意味と「商品」よりも流通力の強い「商品」という意味である。

そうなるとどうなるか?

世に溢れる才能が「お笑い」に集中する。

奇跡的な運動神経を持った若者が「野球」を目指す動機と「クリケット」を目指す動機は知名度だけではない。ロコツにいえば「金の流れるところに才能は流れる」。ゲーム業界を含むIT業界の発展はそういった「良循環」が引き起こしたものだ。

結論を急ぐと(最近日記が長くなりすぎるので)、元演劇ジャーナリストの目で見ても、演劇に流れる才能がお笑いに流れている。と、同時にお笑いの方法論が革命的に進歩してきている。

昨日M-1で優勝したコンビの方法論はあまりにもわかりやすい。日常生活で出会う経験を支配するコード(規則)を非日常のものにスリ代えるというものだ(冷蔵庫の買い換えと結婚、小さな盗難と殺人など)。これはたとえばかつてつかこうへい氏が殺人事件を支配するコードを別のものに置き換えた手法にも匹敵する、タネを明かせばわかりやすくても、それを作品とし成立させるのには高度な技術を要する。

もともと「笑い」とはこのコードの「揺らぎ」に伴うものだ。別に例によってフロイトだのベルグソンだのの定義をひっぱってこなくても「ダジャレ」そのものがそうだろう。「パンツ破れた」「股か」は「又か」と予測されるべき流れを「股」に置き換える「驚き」によって笑いを生ずる。

実は「泣かす」「怒らす」にはこの「揺らぎ」を必要としない。悲しいことをそのまま悲しく再現すれば共感を呼ぶ、腹立たしいことを忠実に伝達できれば事象そのものの力で怒らすことができる。唯一笑いだけが「伝達する」だけでは再現できないものなのだ。悲しいことを泣きながら話せば人は同情の涙を流すが面白かった経験を笑いながら話しても人は笑わない。それは「揺らぎ」の起こった文脈を別の場所に再現するのが困難ということである。

それと、昨日の感想として、「揺らぎ」は「安心感」を前提として笑いにつながることもよくわかった。日常的なコードが乱れる時、普通ひとは「不安」になる。それが「笑い」につながるのは「安心感」が上回るからで、「つかみ」はその「安心感」を観客に持ってもらうためにあるのだ(昨日の審査の流れ全体を見ても、いかに観客が「安心感」を欲していたかは一目瞭然だ。その意味では司会者が「面白かった」とコメントするのは厳にいましめられるべきだったのだが・・・)。

本来「お笑い」はその安定感を前提に「揺らぎ」を起こすもの。つまり日常に「さざ波」をたてることで成立する芸だったはずだ。それがかなりの「大波」を起こす必要があるほどの構造的な変化が起こっている。たぶん業界全体がそういう新入の才能に引っ張られてレベルアップしている。

「お笑い芸人」が人がうらやむようなステイタスになっていっているのは、つまり事の理の当然ということである。

【追加2】つかこうへい氏、と代表させましたが、本当はベケットあたりから始まってますよね。実際、漫才コンビがゴドーをやったりしてましたし。いわゆる「不条理演劇」は輸入された当初はけっこうお高くとまってて「難解である」ことが価値だったのですが、「アングラ」が「小劇場」と呼ばれるところから娯楽性に重点がおかれるようになった。それは「運動」から「プロ志向」への転換だった気もします。やがて「プロ志向」すらも廃れはじめ「コミュニケーション」のあり方の模索に(演劇行為の目的が)変わって行った。いま、演劇の方はまだその模索の途中でしょう。その中で特化された「お笑い」がどんどん洗練されていってるのでしょう。

チュートリアルのネタをネット上でたくさん見ました。
すると今回のM-1のネタがどうして出来てきたかがわかります。普通の漫才形式でしゃべっていても、感情のズレた反応をした時が一番ウケる。そのことが経験として重なってついにはネタ全体をズレた反応のまま受ける形ができていったのです。

つまり舞台上での観客の反応、視線、演劇論ふうにいうと「特権論的肉体」が洗練されて落ち着いた形式だったのです。

しかし、もちろん「形式」になった瞬間に笑いは衰えます。「ああ、これはつまらないものの盗難事件を誘拐殺人なみの反応で受けているだけだな」という分析は言語化しなくても観客にはすぐ気づきます(もちろん「だけ」などでないのは上に書いたとおり)。彼らがこの「完成形」を使えるのはわずかの間でしょう。お笑いはそれほどまでに過酷なものになっているのでしょう。
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by yoogy | 2006-12-25 23:01