講談師・神田陽司のテキストブログ


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『ケロロ軍曹』私論 【ただの覚え書きです】

日本にははっきりとした道徳の支柱がない。

もちろん、営々として築かれてきた習慣・慣習による道徳は厳然と存在する。それは今回の震災の後のともすれば「従順」とまでいえそうな冷静沈着な態度にもみて取れる。

しかしそれもすべて、横並びの「空気を読む」といった判断力と実行力によるもので、いわば成文法としての「道徳の支柱」はないのだ。キリスト教国における「裁きの神」などという絶対的な存在がない。「お天道さまは見てるよ」というのは規範としては強いものだが、「天」が何を考えているかは常に独自の判断に任される。例の有名なジョークで、船の遭難にあった時、「みなさん飛び込んでいらっしゃいますよ」と耳元でつぶやくと一斉に飛び込み始める、というアレである。

批判しているわけではない、それが実存する国民性というものであり、緊急時にパニックを避ける役目も果たすがひとたび集団心理が走り出すと暴走する場合もある。

さて『ケロロ軍曹』。吉崎観音のこの作品はすでに雑誌連載で13年目をかぞえ、テレビアニメのシリーズが七年を経て先日終了した。

この作品がこれほど長く続いた理由のひとつが、ガンダムなどのより人気の高いアニメ作品のパロディをやりたい放題だったということ以上に、アニメの観客層への、一種の規範の中心としてのアピール力を持っていたからだと自分は見ている。

それは二期のEDの「やらなきゃいけないことより、今は君と手をつないでたい」という歌詞に象徴されている。

十数年前のバブルの頃、走れば走るだけ世の中は繁栄し快楽は手に入った。そんな中で走らないのは馬鹿げたことだった。今からは想像できない、公務員が不人気職業だった時代。「24時間戦えますか?」と聞かれて「もちろん」と答えられない人間はその道徳的観念をも疑われた。いや、これは言い過ぎ、当時「道徳」などという観念は不要に近かった。格差などということすら問題にされなかった。

やがて、バブルははじけ、長い反省の日々がやってくる。我々は何を残してきたのか、失われた10年が始まり、積み上げてきたものに虚しさの風が吹いた。

「われわれは本当に成すべきことをやったのか?」自問自答しても答えはない。

ケロロ軍曹、は侵略者である。特殊先行部隊として地球に侵入したが、本隊に見限られ、各自特殊能力を持つ有能な軍人でありながら、地球においてその力を発揮する機会を持つことはできない。中にもケロロ軍曹。アニメ版の最後までその有能さを見せることができず(有能だから隊長であるはずなのだが)侵略作戦はことごとく散文的な思いつきに過ぎず当然失敗する。

そして彼は日常に埋没する。侵略するべき相手である日向家で家事を分担させられる以外は人目を気にして外出もできず、豪華な基地の中でガンプラを作りゲームをしアニメを見続ける。彼の姿が構造不況という言葉すらとっくに忘れ去られた時代の若者の呻吟する姿であることは論を待たない。

そして、彼はその怠惰とささやかな享楽を「肯定されている」のである。

なぜなら、彼の「やるべきこと」は「侵略」だったからである。

アニメ版の最終回で、総司令官に武力侵略を強いられた彼は強弁する。
「侵略は完了しているのであります。われわれは彼らと<ともだち>になったからであります」。

その友情は実は決して甘いものではなく、時には別の侵略者に対して生命だけではなく地球そのものの運命をかけるようなと大バクチも打っている。

すべてが矛盾しているが、すべてが調和している。ささやかでさえあれば享楽を得ることは決して「悪」ではない。21世紀に若者になったものたちへの、あまりにも優し過ぎる行動規範を与え続けたゆえに人気を保ち続けているのだ。

古く『うる星やつら』『究極超人あ~る』といった作品が与えてくれた居心地の良さ。しかしその裏にあるべきひとつ前の時代の行動規範を軟体動物の強さで否定してしまう世界観。


またひとつの時代が静か去ったことは間違いない。現実の時代とともに。
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by yoogy | 2011-04-08 18:33 | レビュー